高取城 奈良県高市郡高取町 日本100名城

令和6年4月13日友人と来ました。10年ぶりくらいに行きました。以前行けていなかった所をゆっくり見てまわりました。城下町も見ることができました。桜は先週が満開だったので今日は葉桜でした。写真もたくさん撮ったのでリニューアルアップします。

 

平成25年11月3日いつもの相棒とぷらっと奈良までドライブに行ってきました。高市郡高取町といって、奈良市をずっと南下したところにあり、京奈和自動車道を通って2時間半くらいかかりました。麓のたかとり観光案内所「夢創館」で100名城スタンプをゲットして、城に関する資料をいただきました。山の上に城があるのですが、本丸近くまで車で行って、10分くらい子供を抱えて登山したら本丸の石垣が見えてきました。自分が足を滑らしたら、子供にも怪我をさせるので冷や冷やしながらの急斜面でした。どうせ誰もいないんだろうな〜て思ってたら、意外にも数組の観光客が来てました。じゃっかん嬉しかった。この山には登山客もきてるようです。城に行き着く途中に、西国三十三所の1つ壷坂寺がありました。息子もどんぐりを発見してご機嫌でした。

 

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松の門
城から移築したものを、復元したものです。

 

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田塩家住宅長屋門

 

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植村家長屋門

 

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猿石

 

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二の門跡

 

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松の門跡

 

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宇陀門跡

 

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千早門跡付近

 

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明日香村、橿原市の街並みが見える

 

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壷坂口中門付近

 

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大手門跡
虎口になっている

 

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十三間多門跡

 

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十五間多門櫓跡 二の丸付近

 

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十五間多門跡

 

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太鼓櫓跡

 

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太鼓櫓から見える二の丸の桜

 

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本丸の石垣

 

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本丸を守る熊さん

 

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本丸の石垣

 

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高取町観光協会ホームページによる高取城縄張り図

 

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奈良産業大学作成の高取城CG再現図

 

このお城、立派な石垣が残った100名城ということで来たのですが、誰が作ったのか?どういう歴史があるのか?全く知らないままやってきたのですが、資料によると、岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つ。高取城の始まりは元弘2(1332)年、南朝方に属した高取の豪族・越智氏が築いた、天守や櫓などの一切ない掻揚げ城であったとされている。天正12(1584)年、筒井順慶によって郡山城の詰城として再建された。天正13(1585)年豊臣秀長の家臣であった本多利久が城主となり、山城式に平城式手法を取り入れた近世的城郭へと整備・拡張が行われた。城内には大小の天守に27の櫓、33の門を持ち、それらが積み重なる白亜の立体的な美しさは芙蓉の花に喩えられ、「巽高取雪かとみれば 雪でござらぬ土佐の城」とも謳われた。麓から天守台までの高低差は、実に390mと日本三大山城の中でも最も高く、「日本一の山城」と呼ぶにふさわしい規模と高さを誇る。寛永14(1637)年に本多家が絶えると、徳川家康の三河安祥時代からの譜代である植村氏が転封された。徳川秀忠、家光の小姓を勤めた植村家6代目家政が大名として取り立てられ、高取藩に入部したのが始まりと言われてます。明治維新まで続いた名家です。幕末の頃には、土佐の尊皇攘夷派、天誅組の土佐藩脱藩浪士那須信吾、吉村寅太郎ら1000人に攻められるが高取藩士らが篭城し撃退している。

 

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麓の土佐街道にある夢創館にてお土産にキハダコーラを買いました。

 

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夢創館にて御城印を購入しました。

 

丸亀城 香川県丸亀市 日本100名城

令和6年2月23日に香川県丸亀市の丸亀城を訪れました。高松城から高速で40?50分かかりました。
連休だからなのか駐車場は満車で、帰りにも多くの人が訪れていました。正直、私今回のお城名前は聞いたことありましたが、誰の城だとかほとんど知りませんでした。

 

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大手二の門

 

慶長2年(1597)生駒親正、一正父子丸亀城築城に着手します。元和元年(1615)一国一城令で廃城となります。寛永17年(1640)生駒氏は生駒騒動により讃岐一国を召し上げられ、出羽国矢島一万石に転封になりました。

 

寛永18年(1641)山崎家治が西讃岐5万石の領主として入場し、丸亀城を再築しました。このころ築城技術が最も発達してきており、現在の石垣が築かれました。しかし、明暦3年(1656)山崎氏は嫡子がなく絶家しました。

 

万治元年(1658)京極高和が6万石の領主として入場。以後、京極氏が6代明治維新まで続きました。

 

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内堀

 

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大手門内の鉄砲狭間、弓狭間

 

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大手一の門

 

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藩主玄関先御門

 

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三の丸北側の石垣
丸亀城の石垣のなかで最も高く、20m以上の城壁が続きます。隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美で「扇の勾配」と呼ばれてます。

 

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月見櫓跡
讃岐富士を正面に望みます。

 

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二の丸井戸
築城に関わる藩士羽坂重三郎の悲しい伝説がある井戸です。石垣の工事の担当をしていた羽坂は城が完成した後、藩主とのなにげない会話で失言をしてしまいます。藩主が「この城を超えることが出来るのは空を飛ぶ鳥くらいであろうな」と言ったところ、羽坂は「石垣を作った私になら鉄の棒が数本あれば登り切って見せますよ」と。そして実際に見事石垣を登り切ってしまったのです。このことが敵国に知れるとまずいと思った藩主は、ある日羽坂が二の丸井戸に道具を落としてしまい中に入って取りに行った時、上から石を落とし殺してしまったのです。

 

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丸亀城天守
3層3階の現存木造天守です。唐破風や千鳥破風で意匠を凝らしています。この天守は四国内で最も古く万治3年(1660)に完成しました。日本一小さな現存天守です。

 

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御城印
丸亀城の天守で購入できます。100名城スタンプも天守で押せます。

 

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丸亀城縄張り図

 

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翌日に、泊まった「琴参閣」(仲多度郡琴平町)という旅館(ご飯も美味しかったし、温泉も気持ち良かったです。)から歩いて金比羅宮を参りました。785段と階段が多く、なかなか家族もみんなしんどかったですが、それだけに境内からみる景色は美しかったです。海の守り神として有名で、天皇の崇敬も厚く、江戸時代ころから全国の高貴な人から庶民まで伊勢神宮のお伊勢参り同様に金毘羅参りが流行しました。

 

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「こんぴらうどん」さんのかき揚げうどん美味しかったです。

 

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金比羅宮の参道はお土産屋さんがたくさんで、色々な店に目移りして飽きないですね。

 

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「金陵醸造元」さんの日本酒も買いました。

 

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他にも地ビールや骨付き鳥チップス、日出製麺の生うどんなども買いました。

 

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「こんぴらプリン」さん

 

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こんぴら狗(いぬ)ゴンちゃんをモチーフにした?こんぴらプリンもとても美味しかったですよ。

 

江戸を中心とした東日本各地からの金毘羅宮への旅は当時は大変で、当人に代わって旅慣れた人が代理で参拝に行くことがありました。これを代参と言いました。代参をしたのは人だけでなく「こんぴら参り」と記した袋を下げた飼い犬が行くことがありました。袋には飼い主を記した木札、初穂料、道中の食費が入っていました。犬は旅人から旅人へと連れられ、街道筋の人に世話をされ、目的地にたどり着いたのです。こういった犬をこんぴら狗と言いました。参道にこんぴら狗ゴンの銅像があります。実際に今回の参詣でも犬を連れている人を何人か見かけました。

 

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こんぴら狗像

 

 

 

 

 

 

高松城 香川県高松市 日本100名城

令和6年2月23日に家族と香川県に旅行に行ってきました。高速道路を使って、明石海峡大橋、淡路島、鳴門海峡大橋を通って行きました。京都から3時間かかりました。10時くらいに着いたので、お城の近くの人気店「さか枝手打ちうどん」でうどんをいただきました。こしがあってとても美味しかったです。

 

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旭橋

 

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艮櫓(うしとらやぐら)

 

高松城はまたの名を玉藻城と呼ばれていますが、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによります。

 

天正16年(1588)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が香東郡野原庄と呼ばれていた現在地を高松と改めて築城に着手した平城(水城)です。縄張りは当時築城の名手だった黒田孝高とも細川忠興ともいわれている。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は日本の三大水城のひとつといわれてます。

 

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旭門(東入り口)

 

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桜の馬場
生駒時代は南端に大手門があったが、松平時代に封鎖され、現在の旭門が大手となった。春には桜が満開になるようです。

 

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桜御門
昭和20年の米軍による高松空襲で焼失しましたが、令和4年に復元された櫓門です。

 

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桜御門の中に入ることができます。石落としもありますね。檜の匂いが心地いいです。

 

生駒氏の治世は4代続きましたが、生駒騒動といわれる御家騒動により讃岐一国を召し上がられ、出羽国矢島1万石に転封されました。寛永19年(1642)に関東から松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で徳川光圀の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国、四国の監察役を命じられたといわれています。水戸徳川家とは繋がりが深く、また幕末に井伊家と並び幕府内でも重きをなしました。以後松平氏が明治維新まで続きました。

 

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三の丸は庭園になっており、見事な松が多いです。

 

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披雲閣
松平時代に藩の政庁及び藩主の住居として使われていました。明治時代に老朽化を原因に取り壊されましたが、大正6年に再建されました。昭和天皇、皇后両陛下が宿泊されました。

 

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陳列館にある天守にあったとされる鯱

 

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陳列館にある天守の再現模型

 

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月見櫓と水手御門と渡櫓
向こう側は瀬戸内海になっています。水手御門は船着場になっています。月見櫓は出入りする船を監視する役割をもつとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので(着見櫓)ともいわれています。

 

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水門を通して海から内堀に入ってきた鯛にエサをあげることができます。ブラタモリの撮影で来られたタモリさんもやっていたようです。

 

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二の丸跡

 

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鞘橋

 

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本丸跡
松平時代の寛文10年(1670)の天守は三重五階唐造りで四国最大の規模を誇っていました。天守は明治17年(1884)老朽化を理由に取り壊されました。

 

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高松城の案内図

 

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御城印
お城の入り口で購入できます。日本100名城スタンプも同じ場所で押せます。

 

次は丸亀城のある丸亀市に向かいました。

 

来月にアップしようと思います。

 

大和郡山城 奈良県大和郡山市 続日本100名城

令和6年1月28日に友人と行ってきました。4年ぶりですね。以前は写真を撮れなかった部分も撮れました。リニューアルアップします。以前もあいにくの雨模様でしたが今日もだったなー

 

令和2年3月8日
コロナの流行で皆さんお出かけ自粛モードですかね。

 

嫁から外出の許可が出たので、一人で奈良県まで雨の中ドライブしてきました。
僕、雨のドライブて好きなんですよねー
京都から京奈和自動車道て高速道路使って1時間くらいでした。

 

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追手門

 

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多聞櫓

 

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追手向櫓

 

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東隅櫓

 

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南御門跡付近の鷺池

 

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南御門跡付近の鰻堀池

 

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白沢門跡
このころ極楽橋はなかった。

 

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令和3年2月に極楽橋が再建された。

 

 

1570年代筒井順慶が織田信長の援軍を得、松永久秀を倒した後に入城し、本格的な普請が行われました。今話題の明智光秀も普請に関わっていたようです。
その後、豊臣秀吉の弟、秀長が、大和、和泉、紀伊100万石の領主として入部した時、今の形にされたと言われています。大和に良質の岩が無かったため、墓石や地蔵なんかも使われました。
その後、関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て様々に、城主が代わり、徳川時代に入ってわ譜代の大名が次々と入りました。1724年柳沢吉里が入部して以降、安定し、これが明治維新まで続きました。柳沢吉里の父は柳沢吉保と言い、将軍徳川綱吉の側用人まで上り詰めた、やり手の政治家です。あの元禄時代の赤穂浪士が吉良邸に主君の仇討ちを果たしたという時代です。

 

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本丸跡にある柳沢吉保を祀る柳沢神社 出世人は死してなお神として祀られんですね。

 

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近年石垣補修された天守台跡

 

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天守台から金剛山を臨む風景

 

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天守台から三輪山を臨む風景

 

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天守台のさかさ地蔵

 

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梅の催し物があってました 春には桜も満開になるようです。

 

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追手門内部で梅の盆栽の展示会がありました。

 

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柳沢文庫

 

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柳沢文庫

 

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城の全体図です。

 

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城から移築された永慶寺の山門

 

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今回初めて城御朱印も購入しました。

 

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大和郡山といえば金魚が有名です。

 

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お土産に近くのPARFUNというケーキ屋さんで金魚サブレを買いました。

 

 

大坂城 大阪府大阪市 日本100名城

令和5年11月25日に10年ぶりに行ってきました。前回は嫁と3歳くらいの長男と一緒でしたが、今回は1人でした。嫁と次男が大阪の鶴橋にコリアンタウンに行くと言うので、自分が車を出しました。真田幸村の真田丸とか豊臣秀頼を祀った神社、自刃の地とか豊臣時代の石垣とか見てきました。今の大阪城は徳川秀忠が作ったものの復元なんですが、以前中に入ったことあるし、観光客があほほど多かったので入りませんでした。豊臣家巡礼ツアーみたいになりました。以前書いた文書に今回新たに撮った写真を付け加えリニューアルしましたのでご覧ください。

 

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。平成25年1月13日今年最初はおめでたい人が建てたお城ということで大阪城に行ってきました。家族3人で高速を使って行きました。

 

着いたらお昼だったので、まず売店でたこ焼き、うどんなど、これぞ大阪て食べ物で腹ごしらえしました。非常に寒かったんでうどんの汁が身にしみました。天守の中に入ると、外のほうが楽しかったのか、くずる息子を嫁に任せて展示物を見てきました。覚えてるものとしては、千石久秀の鎧、細川忠興の軍扇、秀吉の軍配、大阪の陣の屏風そして、なぜか南北朝時代の護良親王の刀がありました。ちょっと意外だったので見入ってしまいました。それにしても中国人、韓国人の観光客多かった。何度もカメラのシャッター押すの頼まれました。恥ずかしいけど、おきまりの「はいチーズ!」と言ってしまいました。あれ何で言ってしまうのかな〜中国語では何て言うんやろ?あと城の周りをランニングしてる人も多かった。何か生活に溶け込んでる感じですね。この城のお堀はかなり立派です。江戸城に次ぐくらいの大きさやないかな〜。
全然計画性はないですが、今年も色々と史跡、100名城を回ってみます!

 

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天守

 

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北西の外堀と櫓

 

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北西の外堀の石垣 横矢かけ

 

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大手門

 

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鉄砲狭間

 

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豊臣秀頼、淀殿自刃の地

 

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石山本願寺推定地
ここは元々は、戦国時代末期から安土桃山時代初期に顕如が治めていた石山本願寺があったところですが、織田信長により制圧され、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)豊臣秀吉により大阪城が建てられました。

 

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蓮如上人袈裟懸けの松

 

秀吉の死後、徳川家康により攻め滅ぼされて、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)に2代将軍秀忠により再建されて現在の形になっています。と言っても、昭和の戦時中に空襲被害を受けて城は焼け落ちたので、天守閣は戦後に建てられたものです。なので名古屋城同様中にはエレベーターがあります。大手門前には秀吉を祀った神社がありました。出世のご利益があるということなので一応お参りしておきました。

 

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豊國神社の豊臣秀吉像

 

日本の歴史上で秀吉のように先祖一族が武士ではない農民の一子息が一時は全国を統一したというような大出世はないのでないでしょうか。源頼朝にしろ、足利尊氏にしろ、織田信長にしろ、徳川家康にしろ先祖代々が武士で基盤もありました。秀吉は当然頭も良かったでしょうが、それに加え人望や世渡りのうまさや何と言っても信長の家臣になれたという運が大きいですね。まあでも晩年はおかしくなってしまって、家臣に領地を与えるためになのか、家臣の力を削ぎたいのか分かりませんが2度に渡る朝鮮出兵をやってます。秀吉時代には城の縄張り、外堀もそうとう広かったようです。どんな城だったんでしょうね。金の茶室を作るくらいの派手好きな秀吉なのでそりゃもう今の天守と比べると全然違った豪華な城だったのでしょう。NHK大河ドラマの「秀吉」はおもしろかったですね〜竹中直人うまかったな〜。もう一度見たい。

 

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大阪城北西側にある豊臣時代の三の丸推定地
追手門学院小学校周囲に残る豊臣時代の石垣

 

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発掘された豊臣時代の石垣をガラス越しに見れるのですが、反射して階段が写ってしまいます。

 

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玉造稲荷神社に立つ豊臣秀頼像

 

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胞衣塚大明神

 

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豊臣秀頼奉納鳥居
阪神淡路大震災で基礎が損傷した

 

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千利休顕彰碑

 

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大阪冬の陣1614年

 

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真田丸の位置

 

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三光神社の真田幸村像

 

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真田の抜け穴
真田丸と大阪城がこの抜け穴を通して繋がっていたとも言われている

 

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真田丸跡は現在学校の敷地になっており今はかつての面影はない

 

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真田丸跡近くに立つ心眼寺にある幸村の墓

 

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真田丸再現CG(NHK歴史探偵VR大阪の陣真田VS徳川より引用)

 

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真田丸再現CG

 

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御歌頭さんが書いた大阪城の墨城印

 

観音寺城 日本100名城 滋賀県近江八幡市

令和5年11月11日に10年ぶりに観音寺城を訪れました。以前は3歳くらいの息子とでしたが、今回は息子の同級生のパパ友と歴史の話でいきがあい一緒に行くことになりました。10年前に書いた文書を新たに撮った写真も追加してリニューアルしたので再掲載します。今回は、五箇荘観光センターに車を停めて、結神社から登りました。なかなかしんどいルートでした。下から行くなら日吉神社あたり停めるルートが1番いいと思います。

 

平成25年5月8日息子と2人でJRとタクシーを使って行ってきました。JR安土駅からタクシーに乗ったので往復でかなりの高額になりました。マイカーで行かれることをお薦めします。駅から歩くのはかなりの時間と根性を要します。室町時代に近江の南部を治めていた佐々木六角氏の居城(近江の北部を治めていたのは佐々木京極氏)で100名城の一つです。一般人から見ると、ただの石ころしかないこの場所が、なぜ100名城に選ばれたかというと、100名城選定委員からの推薦は少ないが、城郭発達史や地域的特色から欠かせない城ということや歴史的事件の舞台になったということかららしいです。確かにここはきぬがさ山という広大な山に建てられた中世を代表する山城(平時は麓の居館で生活し、戦時にだけ使う城)であり、また織田信長の上洛時に六角氏との間で大きな戦があった場所ではあります。もともとは西国33所の1つ観音正寺が605年に建てられて、その後この辺りを治めた六角氏がそれを庇護し、1468年に城を建てたとのこと。西国33所巡りというものは、通の間では結構流行っているらしく(大抵が年配の方だが)、お寺やそれを取り巻く仏像はすごく立派でした。

 

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料金所で100名城スタンプが押せ、御城印シールを購入できます。ここの方が城跡の周り方を地図をくれて丁寧に教えてくれました。

 

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観音正寺
ここから少し登山して城址まで行きます。

 

それに比べると、城址の荒れ方のひどいこと、ひどいこと・・・お寺から本城址までは草ぼうぼうの道なき道でやぶへび出てきそうだし、城址も枯れ枝、落ち葉、倒れた木の散乱状態はもう最悪。大阪城や名古屋城のように万人が一目見て城と分かるところには観光客も多く収入があり、このようなとこはめったに人が来ないため収入がなく仕方がないとは思いますが、滋賀県も市も100名城に推薦して、認定された後に放置するのではなく、せめて手入れくらいして欲しいですね。子供が走り回ってたけど、何度もこけてました。なお信長の安土城はここから目と鼻の先にあります。

 

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本丸跡

 

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本丸の石垣

 

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井戸跡

 

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落合氏屋敷跡

 

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平井丸

 

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池田丸

 

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大石垣に立つ旗

 

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大石垣

 

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安土歴史資料館に展示してある観音寺城模型

 

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五箇荘観光センターで購入したきんかん地ビールと安土駅近くの和菓子屋さんで購入したきぬがさ山

 

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観音正寺受付で購入できる御城印シール

 

 

 山頂部には、樹間に本丸跡の石垣や石段、平井丸(ひらいまる)・落合丸(おちあいまる)・池田丸(いけだまる)の3つの城郭跡が残っています。また、大夫殿の池と称する籠城に備えた命水や、山上の雨水が石垣を崩さないように考えられた石畳の樋などがあり、多くの箇所に工夫が疑らされているのがわかります。本丸跡からは、ほかに茶器・硯・水差し・皿・壺なども多数出土しました。頂上からは、湖東平野一円を見渡すことができ、旧中山道や朝鮮人街道もよく見えます。

 

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滋賀県教育委員会実測図

 

築城の年代は明らかではありませんが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。
観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している。

 

 

室町時代の応仁の乱では、六角高頼(1445-1520)が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。
戦国時代に入り高頼(たかより)が、家臣である伊庭行隆・山内政綱(まさつな)らに命じて次第に整備されて、典型的な山城となったといわれています。高頼の息子の定頼のころ、将軍足利義晴、義輝を援助した功で、六角氏は最盛期を迎えた。

 

六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の軍を興すと六角氏は敵対し、信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。

 

お城EXPO in 姫路

令和5年9月18日にお城EXPO in姫路にアクリエひめじに行ってきました。

 

車で行って、私だけ参加して、妻と次男は車で姫路城に移動し、城横の動物園に行き、昼食後城を見学した後、私と落ち合うという計画でした。
というのも今回は千田先生の講演を聞くことと、私は姫路城に何度か行ったことがあるという理由です。

 

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京都を9時くらいに出たのに到着が11時となり2時間もかかってしまいました。

 

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姫路城のゆるキャラ、城丸姫

 

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ブラウザゲーム戦国IXAのゆるキャラIXAにゃん

 

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墨絵師御歌頭さんによる黒田官兵衛と姫路城
以前2021年の滋賀県の長浜市で開催されたお城EXPOで私の行ったことのあるお城の墨城印はだいぶ大人買いしたので今回は購入しませんでした。

 

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城郭合体オシロボッツなるアニメのキャラクターオシロボッツ姫路城 なんだかガンダムのようです。

 

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熊本城のゆるキャラくまモンも応援に駆けつけており、新曲を踊ってくれました。

 

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白旗城は販売1時間で売り切れたようで残念ながら手に入れられませんでしたが、岡山城、明石城、姫路城、洲本城などの行ったことのあるお城の御城印はゲットできました。洲本城の脇坂安治かっこいいですね。

 

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御城印とともにクリアファイルやパンフレットもいただけました。
広島城ブースもあったのですが御城印を売ってなかったのが残念。確か大学の時に行きました。しかし、ブースのお姉さんと何故か広島東洋カープの話で盛り上がりました。

 

この後、お城EXPO幕の内弁当を食べて、奈良大学の千田先生の講演を聞きに行きました。姫路城と世界のお城の話でしたが、非常に興味深いものでした。世界の城と日本の城の共通点など分かりやすく説明していただけました。以前モンゴルあたりにもお城の発掘に行ったことがあるようでやはりすごいなと思いました。

 

この後、妻と次男と合流するために姫路城に向かいました。どうやらまだ城に行ってないようで私も一緒に行くことになりました。

 

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世界遺産の姫路城
今日は本当に暑く、なかなかしんどかったです。多くの方が天守まで登られてました。

 

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西の丸
その後次男とここまでやってきました。ここは初めて見るかな。

 

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化粧櫓
藩主本多忠刻は徳川秀忠の娘千姫を正妻とした。千姫の化粧料で建てられた櫓なのでこの名前がついた。千姫の休息や化粧直しに使われたと伝わる。

 

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百間廊下
千姫に仕えた侍女たちがここ西の丸長局で暮らした。千姫はここから朝夕男山天満宮を遥拝しました。

 

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黒田官兵衛普請の石垣

 

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お土産に山田錦の日本酒と赤穂の塩キャラメルも購入しました。

 

帰りは渋滞に巻き込まれて大変でしたが、千田先生の講演も初めて聞けたし、次男に世界遺産を見せることができて良かったです。

 

中津城 大分県中津市 日本続100名城

令和5年8月13日に帰省のついでに父と行ってきました。前日に久住山に登山し、法華院温泉山荘に泊まりました。そこからのスタートで中津城に向かいました。続日本100名城です。日本三水城の一つです。(他には香川県の高松城、愛媛県の今治城)

 

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中津城と石垣と水堀

 

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天守

 

黒田孝高(如水)が豊臣秀吉の命令により九州を平定し、中津16万石を拝領して天正16年(1588)、中津川河口周防灘に臨むこの城を築きました。本丸石垣、内濠は当時のままで水門より海水が入って潮の満干で濠の水が増減している水城です。黒田氏の後、細川氏、小笠原氏、最後に奥平氏が入って廃藩置県を迎えました。

 

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島津氏の九州制覇を寸前で止めた豊臣秀吉軍は圧倒的な兵力差をもって薩摩まで追い返した。その後豊前6郡が黒田孝高に与えられたが、ここ中津を本拠地とし、土着の国人領主の平定に数年苦労した。

 

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1600年に関ヶ原の戦いが勃発すると黒田孝高は徳川家康の東軍に味方することを表明した。地元の民をかき集め9000人ほどの軍団ができると孝高は如水原より出陣し、次々と西軍に与する城を落としていき、石垣原の戦いでついに大友義統を倒した。

 

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東軍の武将たちと連携して瞬く間に北部九州を平定した。しかし、関ヶ原の戦いは意外にもたった1日で家康の勝利に終わった。孝高が島津攻めをしようとした矢先に家康により停戦命令が出された。

 

息子の黒田長政が関ヶ原での活躍から「徳川家康から何度も手を握られ感謝された」と自慢げに報告すると「その時お前の空いた方の手は何をしていたのか」と言って家康を刺さなかったことを叱責したという、孝高の野心家ぶりを示した話は、中央から遠く離れた九州中津の地から、天下を見据えていた逸話として知られている。

 

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長篠の戦い時着用の奥平信昌公鎧

 

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奥平神社
奥平家中興の祖・初代貞能、二代の信昌、三代の家昌を御祭神として祀っています。

 

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中津大神宮

 

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中津城天守から見える周防灘へ流れる中津川の風景

 

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天守で販売している御城印

 

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福沢諭吉像
万延元年(1860)幕府使節の護衛船「咸臨丸」に軍艦奉行の従者として乗り込み渡米。文久2年(1862)には幕府使節の一員としてヨーロッパ諸国も歴訪。議会や郵便制度、銀行、病院、学校などを旺盛な好奇心をもって見聞しました。その後これらの経験をもとに「西洋事情」を著し、続けて「学問のすゝめ」「文明論之概略」などを次々と発表して、世界と隔絶されていた当時の日本人を啓蒙していったのでした。また慶應義塾を創設し、後進の育成にも努めました。

 

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福沢諭吉旧宅
福沢諭吉は中津藩の下級武士の子として生まれました。安政元年(1854)に蘭学を志して長崎に遊学するまでここで暮らしました。

 

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合元寺
通称「赤壁の寺」と呼ばれる。空誉上人が天正15年(1587)黒田孝高(如水)に請われて姫路から中津にやってきて開山した。

 

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合元寺の赤壁
孝高は領内平定のため、反抗勢力の制圧にとりかかりましたが、現在の築上町を本拠としていた城井城主宇都宮鎮房だけは新領主の孝高に服することを嫌い、激しく抗戦に及びました。そこで孝高は一計を案じ長子長政の家に鎮房の娘千代姫を貰いたいと申し出て和睦をはかりました。天正17年(1590)鎮房とその供150名余りは中津城に赴きましたが、城内に入れられたのは鎮房と小姓1人のみであとは合元寺に休息を命じられました。孝高は策略をもって鎮房を城内で謀殺すると、その勢いで合元寺に休息する宇都宮家臣団を急襲しました。不意をつかれた宇都宮家臣団は、奮戦虚しく合元寺の白壁を鮮血に染めて壊滅し、ここに鎌倉以来の名門であった豊前宇都宮氏の終焉となりました。以来、門前および堂内の白壁は幾度塗り替えても、血がにじんで赤く染まるので、ついに「赤壁」にしてしまったといわれる哀史の秘めたお寺であります。

 

この後、北九州の祖父母の墓参りをして、福岡の実家に戻りました。なかなかハードな日程でした。

 

谷性寺 京都府亀岡市

令和5年7月22日に京都府亀岡市の谷性寺(こくしょうじ)に行ってきました。桔梗の寺として有名なので桔梗が咲くこの時期まで待ちました。

 

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清瀧山谷性寺は通称「光秀寺」と呼ばれています。平安時代の創建になる真言宗の古刹で大覚寺派に属し、不動明王を本尊としています。天正年間明智光秀公は、本尊不動明王を厚く崇敬し、将兵はその加護をおいました。

 

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幸せを呼ぶ谷性寺の鐘

 

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明智山門
柱には「明智山門」及び「真言宗大覚寺派 清瀧山谷性寺」と書かれた二枚の木札が掛かっています。この門は「光秀公首塚」の正面真東側に位置し、この門を通して首塚の正面が見えるので「明智山門」の名称が付けられたものと思われます。写真の奥に光秀公首塚が見えます。

 

光秀公首塚の石碑は安政2年(1855年)に幕末の志士「栄」なる人が、光秀の怨念を鎮めるために建てて供養したといわれます。

 

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境内に咲く桔梗

 

明智家の家紋に基づき、また光秀公の供養にといつの頃からか植えられるようになった谷性寺の桔梗は6月下旬から8月に至るまで次々と咲き乱れます。境内が桔梗一色に塗り広げられるところから「桔梗寺」と言われるようになりました。周囲の山を背景にした眺めは絶佳というべく、戦国武将光秀公の心につながっています。

 

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ピンクの桔梗

 

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ききょうの里に建てられた明智光秀像

 

明智光秀公が本能寺に織田信長襲撃を決意し、この不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願をこらし、その功徳を得て本懐を遂げました。

 

明智光秀が豊臣秀吉の軍に山アの戦いで敗れ、坂本城に向かう途中、天正10年(1582年)6月に山科小栗栖で民衆に襲われ殺されました。光秀の介錯をした溝尾庄兵衛は光秀の首を鞍覆に包んで近親に託し、光秀が生前に信仰していた本寺に運び、懇ろに埋め葬ったとされ、従者の記しが小型石碑に見られます。

 

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谷性寺の御朱印

 

基肄城(きいじょう) 続日本100名城 佐賀県三養基郡基山町

令和5年5月4日に家族と佐賀県の続日本100名城の基肄城に行きました。

 

水城に引き続いて行きました。

 

663年の白村江の戦いで敗れた日本に唐と新羅の連合軍が攻めてくるかもしれないという緊迫した情勢が生まれ、中大兄皇子、後の天智天皇は太宰府防衛施設の建造を急ぎました。665年に築かれたのが基肄城です。

 

百済高官の指導により築かれたこの朝鮮式山城は、大野城とともに我が国最古の山城といわれ、山全体の地形を使い周囲4キロに城壁を廻らす壮大なもので、今もその雄大さを感じることができます。

 

水門あたりから今回史跡めぐりコースを一人で歩きました。次男と母は別のルートで山頂を目指し、落ち合うことにしました。
父は車を水門から迂回させて、山頂に先に行ってもらうことにしました。

 

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水門跡
谷を流れる筒川の水を通す水門跡。谷口をふさいだ石垣も一部残り、ここに南門があったといわれます。

 

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水門跡

 

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丸尾礎石群

 

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丸尾礎石群
基肄城内には基肄軍団と呼ばれる軍隊が駐屯していたといわれます。食料や武器の倉庫、住居等の柱を据えたと思われる礎石群が今も多く残っています。

 

史跡めぐりコースはなかなかしんどい登り坂でした。ぜーぜー言いながら次男たちより少し早く山頂に到着しました。そこで3人でお昼ご飯を食べました。
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いものがんぎ

 

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いものがんぎ
イモの畝の意。これは人為的に作られたもので、敵が攻めにくいように古代ではなく中世に作られたものと考えられています。

 

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天智天皇欽仰石碑

 

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基山山頂

 

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頂上から太宰府市方面を望む

 

この後、父ともおちあい、山頂の草スキー場に行きました。次男は楽しそうに滑っていました。

 

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基肄城全体図

 

続日本100名城のスタンプは基山町町民会館にありました。