水城(みずき) 福岡県太宰府市 続日本100名城

令和5年5月4日にゴールデンウィークを利用して帰省したので家族で行ってきました。

 

これまでは太宰府に行くのに何の気なしに通っていましたが、続100名城に選定されたことで改めて訪れました。

 

7世紀後半の朝鮮半島では国の存亡をかけた戦いがくり広げられていました。新羅(しらぎ)は唐と結んで百済(くだら)や高句麗(こうくり)を滅ぼしました。

 

当時の日本は百済を助けるために大軍を送りましたが、663年の白村江(はくそんこう)の戦いで新羅、唐の連合軍に敗れました。その後、ヤマト朝廷は、朝鮮半島に最も近い福岡平野に大野城や基肄城(きいじょう)を築き、防人(さきもり)が置かれる事態となりました。そのような中で西暦664 年に水城が築造されます。

 

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水城大堤の石碑

 

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東門礎石

 

下の図のようにここに東門の門柱と門扉が建っていたようです。
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土塁
土塁には土と砂が整然と積み重ねられた層があり、版築工法で作られました。中国、韓国の古代土塁にも類似した例があり、技術の系譜がうかがえます。

 

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このような形をしていたと考えられています。外濠、内濠もありました。

 

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土塁の版築作業

 

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水城土塁の断面図

 

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東門木樋跡
とのことですが、草が生い茂って全く分かりません。下の写真のように導水のために造られた木製の通水管があったようです。
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商業都市博多や古代の迎賓館である鴻臚館(こうろかん)と九州の政庁である太宰府をつなぐ官道の関門の役目を果たしました。

 

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水城瓦窯跡
とのことですが、畑があるだけでよく分かりません。

 

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水城の奈良、平安時代のようす

 

続日本100名城のスタンプは東門跡あたりにある水城館内に設置してあります。

 

続いて基肄城に向かいました。

 

佐和山城 滋賀県彦根市

令和5年3月31日に次男と滋賀県彦根市の佐和山城に訪れました。高速道路で1時間半くらいかかりました。

 

まず彦根駅前の観光案内所で、佐和山城跡MAPをいただき、行き方を教えてもらいました。まずは麓の龍潭寺を目指すことにしました。

 

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龍潭寺の石田三成公像

 

佐和山城といえば石田三成の城ですね。関ヶ原の戦いの西軍の総大将です。

 

鎌倉時代初期、近江源氏佐々木時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。戦国時代には浅井氏の磯野員昌が籠り、信長により包囲されますが、後に降伏します。信長はここに丹羽長秀を配し、秀吉時代は堀秀政、堀尾吉晴、石田三成を配しました。

 

三成の時代には本丸以下、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸が連なり、山下には東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷、足軽屋敷、町屋などの城下町が建設されました。

 

1600年の関ヶ原の戦いで三成が徳川家康に敗れた後、三成は湖北へ逃走、小早川秀秋を主力とする15000人が佐和山城を包囲しますが、三成の父、兄の守備は堅く執拗な攻撃によく耐えましたが、兵力の違いはいかんともしがたく落城。天守は焼かれて自刃して果てました。三成も家康により処刑されました。豊臣家に忠義を尽くした武将の哀れな最後でした。家康には恩賞として与える土地があるとか、敵武将の懐柔とかの合戦前の根回しなど勝因は色々あると思いますが、三成の最大の敗因はやはり豊臣秀頼を総大将として出陣させられなかったことだと思いますね。豊臣対徳川の争いに持っていかなければならないところを石田対徳川の私戦にされたことで、そりゃ味方も減りますよね。秀頼が総大将になったら、豊臣に恩のある加藤清正や福島正則、黒田長政ましてや小早川秀秋は果たして徳川に味方しただろうか?と考えるのです。

 

その後、井伊直政に佐和山城が与えられましたが、翌年直政は死去。井伊家の家老の木俣守勝は家康に相談して彦根山への移築が決定しました。

 

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龍潭寺山門

 

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本堂

 

この山門と本堂を超えて、寺の本堂の右側を登って行くと、墓地が出てきます。最初の方は、最近でもご親族が参っているのでしょう、檀家なのでしょう。綺麗に整備されております。しかし、上に行くに従っておそらく無縁仏なのでしょう。無造作に置かれた墓石だけが散乱しています。こういう登城口は初めてなので何か申し訳ありません、失礼しますという気分になりました。

 

山頂まで30分くらいとのことでした。ところどころ険しい坂がありました。

 

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切通し
これは明らかに人が掘削したのが分かります。

 

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塩硝櫓跡

 

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西の丸跡

 

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竪堀

 

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本丸跡
次男もぜえぜえ言いながら頑張って頂上まで辿り着きました。ここで一休みしました。
かつて本丸に存在したであろう天守台や枡形(入り口)などの遺構はほとんど確認することができません。本丸は大規模な破城があったと考えられます。

 

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隅石垣
この石垣は本丸の隅部に位置し、しかも石垣の基底部であったと考えられます。

 

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本丸跡から見える景色
彦根市内が一望でき、彦根城も確認できます。遠くには琵琶湖や湖西方面も見えます。 

 

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佐和山城の縄張り図

 

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佐和山城の御城印
彦根観光案内所で購入できました。

 

他にも何人か城を訪れている方もいました。帰りは次男の足もスムーズでした。この後は昼飯を食べて、彦根城のひこにゃんショーに連れて行きました。とても喜んでいました。

 

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ひこにゃん

 

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次男に御城印帳と彦根城の御城印を買ってあげました。

 

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彦根城の売店でお土産にひこにゃんどら焼きとチョコクランチと地ビールを買いました。

 

八上城 兵庫県丹波篠山市

令和5年2月23日に家族で兵庫県丹波篠山市の八上城に行きました。波多野聖さんの「ダブルエージェント明智光秀」を読んで一度訪れたいと思っていたところです。

 

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麓の春日神社近くの駐車場に車を停めて登りました。この神社もなかなか歴史がある感じがします。今回は右衛門丸ルートで登ることにしました。1キロメートル45分の道のりです。

 

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主膳屋敷跡
落城後、時の支配勢力の城主が交代していくが、その政治の中心となる館跡

 

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伝 鴻の巣
西からの敵に備えた番所

 

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伝 下の茶屋丸
西からの敵に備えた陣地

 

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次男はなんやかんや言いながら楽しく登っています。この辺りはたいらですね。

 

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伝 上の茶屋丸
西からの敵に備えた陣地

 

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右衛門丸跡
城主の屋敷跡。西方を防備し、蕪丸(かぶまる)にも通じ、全山の連絡や指揮にあたる所。

 

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三の丸跡
石垣を持つ広場に建物があり、南方谷間に対する重要防備陣地かと思われる。

 

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二の丸跡
門の礎石と屋敷の瓦の断片等より、最も重要な任務を担当した場所と思われる。

 

雪がまだ残っていて、ぬかるみも多く足を取られ、みんなヘトヘトになりながら何とか到着できました。

 

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頂上からは360度篠山平野が見渡せます。絶景です。多くの山があるのですが、波多野氏の支城や砦がたくさんあったようです。光秀が波多野攻めの拠点とした金山城もありました。

 

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本丸跡に立つ波多野秀治公表忠碑

 

波多野氏は石見国の出身で応仁の乱に戦功があり、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、八上城を拠点としました。永禄11年織田信長が上洛すると波多野秀治は一旦服従の姿勢を示しますが、天正4年織田信長の丹波攻めが始まると反旗を翻し、明智光秀の軍を敗走させます。天正6年の第二次丹波攻めの時、明智光秀に八上城は徹底的に包囲され、一年にわたる壮絶な籠城戦の末、八上城は落城し、秀治ら三兄弟は信長の元に送られ安土の慈恩寺にて処刑され、波多野氏は滅亡します。

 

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その後しばらく光秀が支配しますが、本能寺の変、山アの戦いにより、政権が豊臣秀吉に移ると八上城には前田玄以が入ります。玄以の後は茂勝が継ぎますが慶長13年に改易となります。その後、松平康重が入りますが、篠山城が徳川家康の天下普請により築かれると康重はそちらに移り、八上城は廃城となりました。

 

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岡田丸跡
重臣岡田某の館跡。東、北に対する防備に当たった所と伝えられる。

 

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右衛門丸跡の石垣

 

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八上城のジオラマです。篠山城大書院で見学できます。

 

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この後、篠山城に行って大書院にて篠山城と八上城の御城印を購入しました。その後に、篠山城の近くのOFF the recordというお店でハンバーガーを食べました。次男もイケてるお店に大満足でした。帰りにるり渓温泉で温水プールと温泉に入り汗を流しました。

 

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八上城は非常に登山道が整備されており、登りやすかったです。なぜ続100名城に選ばれなかったのかなと思うくらいでした。八上城は他にもいくつかの登り口があり、まだまだ見れていない史跡があるので、もし行かれる方は下調べして行った方がいいです。

 

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八上城の5つの登山道

 

丹波篠山市は大河ドラマ「麒麟がくる」の時に下のようなホームページを作ったようです。良かったら見てみてください。
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宇佐山城 滋賀県大津市

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

令和4年12月31日に滋賀県大津市南滋賀町にある宇佐山城を息子2人と訪れました。車で山科から30分くらいでした。これまでで1番近いところにありました。最近読んでいた小説、波多野聖 著「ダブルエージェント明智光秀」で登場してきたので行ってみたくなりました。以前、奈良大学の千田先生もテレビの撮影で訪れていました。

 

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宇佐山の中腹に宇佐八幡宮があり、ここの駐車場に車を停めました。当日は地元の方々が新年を迎えるために掃除や用意をやっており邪魔になったかも知れず申し訳ありませんでした。駐車場までの道があまり舗装されておらず、細いので要注意です。

 

前九年の役を終わらせた源頼義がここ錦織荘に館を構え、九州大分の宇佐神宮を鳩の群れが導き示したこの地に勧請し宇佐八幡宮を建立しました。子供の守り神としても崇敬を集めています。子供たちの無事安全を祈りました。この宇佐八幡宮から登山を開始します。

 

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登城する息子たち

 

途中に付近の小学校の生徒たちが買いたと思われる道案内板があり、助かりました。この前行った周山城よりは道のりも短くしんどくはなかったです。

 

1570年(元亀元年)大阪本願寺勢と交戦中であった織田信長は浅井、朝倉から京を守る抑えを森可成に命じ、ここに城が築かれました。この年、浅井長政、朝倉義景が攻めてくる宇佐山城の戦いが起き、六角氏や比叡山僧兵らにも攻められ森可成、織田信治(信長の弟)は寡兵ながら奮戦しますが、ついに討死します。

 

宇佐山城の危機を知った信長は本願寺攻めを諦め、救援に向かいます。信長の大軍に恐れをなした浅井朝倉軍は比叡山へと兵を引き、何とか落城は免れました。

 

比叡山との講和で戦は終結するも、浅井朝倉軍の引き渡しは拒否され、冬になる前に両軍は自国へ帰っていきました。

 

信長は比叡山が浅井朝倉に味方したこと、僧侶たちは仏に使えると名ばかりで酒色に耽って堕落していることを理由に1571年(元亀2年)全山焼き討ちにすることを決め実行します。その司令官に明智光秀が抜擢されました。

 

明智光秀はその功により、信長により志賀郡と宇佐山城を与えられました。その後、琵琶湖畔に坂本城が築城されるとそこに移り、宇佐山城は廃城となりました。

 

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本丸の石垣

 

本丸にはテレビ塔が建っています。

 

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本丸の石垣

 

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本丸の石垣

 

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二の丸

 

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三の丸

 

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三の丸から見える膳所方面

 

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三の丸から見える坂本方面

 

琵琶湖畔と街並みが一望できて最高に気持ちいいながめです。

 

今年はみなさんにとっても良い年になることを祈ります。

 

私もマイペースで歴史探訪をしようと思います。よろしくお願いいたします。

 

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ホテルサンルート彦根さんで御城印シールが買えました。郵送代、手数料かかりますが、送ってもらえます。

 

余部丸岡城(あまるべまるおかじょう) 京都府亀岡市

令和4年11月28日に仕事が始まる前にちょっとだけ行ってきました。亀岡駅から近いです。ただ駐車場がどこにあるか分からず困りました。実はこのお城全く存在を知らなかったのですが、周山城麓の慈眼寺を訪れた時にいただいた「丹波国お城・城跡を訪ねる歴史の旅マップ 明智光秀ゆかりの地」というパンフレットを見て御城印が独特でいいなと思い欲しかったので訪ずれました。

 

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西岸寺
城跡の一角にあるお寺です。このお寺で御城印を購入することができます。9時という早朝から訪れてしまい申し訳ありませんでした。男性の職員の方が丁寧に来訪日付を書いてくれました。

 

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西岸寺のお庭
下に示す地図によるとこの辺りが本丸の東端にあたるようです。

 

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御城印
無名の城ながら味わいある独特のデザインです。達筆すぎて分かる人にしか分からないです。季節限定カラーのものもあるのですが、明智光秀の水色桔梗が分かるスタンダードなやつを選びました。

 

織田信長に丹波平定を命じれた明智光秀は天正6年6月に余部の福井因幡守から攻めることにしました。丹陽軍記によると光秀は2500余騎で余部城を包囲して一気に殲滅しました。因幡守は女房を道連れに切腹して果てました。一旦は逃げ延びた2人の息子たちも結局命を落とすになりました。光秀は余部城を丹波亀山城ができるまで、しばらくの居城としました。

 

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縄張り図(日本城郭大系第11巻より)
余部城は新期洪積台地が沖積低地に半島状に突出して三方に河岸段丘崖をもち、北側には大堰川の旧河道がつくった三日月沼を天然の環濠としており、さらに東側は両川の水をつないでいて、三方が水で取り巻かれていた。

 

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現在の地図
現在は以前あった水堀は全て埋められている。

 

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絵本太閤記より光秀 過部(あまるべ)の城を責めるの図

 

周山城 京都市右京区京北周山町

令和4年11月23日に家族と行ってきました。雨が降っていたので、山城攻めとしては最悪のコンディションが想定されました。前々から予定していたのでせめて慈眼寺までは行こうということになりました。それにしても右京区は南北に長いのでこんな田舎なのに京都市内なのです。いわゆる市内からは山をひと超えもふた超えもしないと着きません。

 

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慈眼寺
ここは真っ黒に塗られた珍しい明智光秀像があることで有名です。

 

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光秀の坐像のあるお堂

 

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くろみつ大雄尊(写真撮影不可だったため資料から抜粋)

 

光秀は丹波平定後この地域に善政を敷き、その人柄を讃え崇敬の念から作られた坐像は、やがて逆臣の汚名からか墨で真っ黒に塗られ、人知らぬ秘像として今日までひっそり祀られてきました。

 

慈眼寺の従業員の方が詳しく教えていただきました。像をよく見ると脇あたりと背中の襟あたりに明智家の桔梗紋があるとのことでした。

 

徳川家康に仕えた天海僧正の死後、朝廷から与えられた諱がこの寺の名前でもある慈眼大師であったことから天海=光秀説を後押ししているようです。

 

「世界不思議発見」の取材や「何だこれミステリー」という番組であばれる君も来たようです。

 

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境内の美しい紅葉

 

この後、道の駅ウッディ京北で腹ごしらえして、雨も小降りになったので周山城を登山することにしました。片道が30?40分かかります。登山途中の道には鹿のふんらしきものがありました。鹿や猪が時々出るようです。

 

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登城道
明らかに人の力で掘られたように感じました。

 

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このように細くて足を滑らせたら落ちてしまいそうな箇所がいくつかありました。

 

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終盤に入ると落ち葉が多く、道もよく分からない状態。そして滑りやすい。次男がよく先導してくれました。

 

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本丸から廓へ向かう石段

 

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大石垣
倒木が多く危険で近づけなかったのでズーム機能で遠くから撮りました。

 

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案内板
若狭から京都への交通の要衝であり、宇津頼重により禁裏領への違乱が長く行われていた東丹波統治の拠点として、天正7年(1579)、明智光秀によって周山城は築城された。丹波支配を開始した光秀は本拠地亀山城を居城とし、福知山城に明智左馬介秀満を、黒井城に斎藤利三を、八上城に並河飛騨守を、そして周山城には明智光忠(三宅次右衛門)をそれぞれ配した。周山城は以後天正10年まで明智光忠の居城であったようで、本能寺の変後、明智氏の部下によって壊され、一時再興されるも、豊臣時代の終焉とともに廃城となったようである。

 

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上の方に登ると雲海を見ることができました。登山の間しばらく雨が止んでくれたので助かりました。

 

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慈眼寺で御城印を購入できました。御朱印も別に販売しています。

 

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子供達にオリジナルキャラクターのくろみつ君の缶バッジを買ってあげました。京都パープルサンガとワールドカップの日本代表を応援したデザインになってます。

 

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帰りに南丹市のスプリングスひよしという温泉に浸かりました。疲れを癒すことができました。美山牛乳ソフトクリームをみんなで食べました。美味しかったです。お土産に京北を代表する羽田酒造さんの日本酒と丹波ワインと美山チーズを買いました。

 

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周山城の縄張り図(周山城趾を守る会)

 

 

出張!お城EXPOin滋賀・びわ湖2022に行ってきました。

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令和4年9月18日に家族とお城EXPOに行ってきました。1年ぶりです。去年は滋賀県長浜市でしたが、今回は甲賀市でした。こうがと呼びそうですが、実はこうかと呼ぶんです。私も最初知りませんでした。九州の方から近づく台風の影響で大雨の中、高速道路を使って行きました。来場者も少ないと思っていましたが着いてみるとびっくり、駐車場は満車状態でした。車停めるのに一苦労しました。皆さんやっぱり楽しみにされてたんでしょう。

 

日本城郭協会理事長 小和田哲男氏の講演を聞きたかったのですが、家族を待ちぼうけさせるので講演要旨だけ、いただきました。

 

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パンフレット

 

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碧水ホールでの御歌頭氏による墨絵展示 織田信長 今回も墨絵ライブがありました。

 

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武将印のための御城印帳が欲しかったのでこの会場オリジナルのものを購入しました。甲賀といえば、思い浮かぶのはやっぱり忍者ですよね。

 

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甲賀市のキャラクターにんじゃえもんの缶バッジと消しゴムを子供たちに買いました。

 

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にんじゃえもんサイダー、コーラを買いましたー

 

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会場から徒歩15?20分のところに水口(みなくち)城があるので次男と行ってきました。このお城、実は私全く知りませんでした。なので資料からご紹介します。

 

水口城は近世東海道の南側に位置しており、野洲川方面を見下ろすような地点に立地しています。寛永11年(1634)に徳川家光の上洛の際、宿館として築かれました。その後、天和2年(1982)加藤明友(賤ケ岳7本槍の1人加藤嘉明の孫)が水口藩主として入り、一時鳥居氏が入りますが、再び加藤氏が復帰して明治維新を迎えます。水口藩は甲賀、蒲生地域を中心に2万5千石を支配する小藩ながら、水口、日野など重要な地方都市を治めました。

 

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水口城資料館

 

平成3年に開館した資料館は往時の矢倉を模したたものです。明治維新後、水口城は廃城となり建物や石垣の大半が処分されました。また旧本丸は学校敷地になり運動場として利用されています。

 

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水口城縄張り図

 

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水口藩士の鎧具足

 

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水口藩士の火縄銃と大筒

 

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御城印 水口かんぴょう夏限定

 

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水口城で滋賀の地酒を買いました。飲むのが楽しみです。

 

これにてお城EXPOを離れ、車で数十分のところにある忍者屋敷を訪れました。

 

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甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧宅)

 

甲賀五十三家の筆頭格、甲賀望月氏本家の住居として元禄年間に建てられたものです。外見は一般的な日本建築の住宅ですが、内部には外敵に備えて数々の工夫が凝らされています。たとえば侵入した敵を捕らえる「どんでん返し」「落とし穴」、敵に発見されずに逃れるための「抜け道」や「隠し部屋」「縄梯子」などを備えています。それらを体験でき、また手裏剣投げなどもできて子供たちも満足でした。

 

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様々な形の手裏剣

 

甲賀地方は望月氏のような土豪(村落領主)が多く存在して、惣村を組織した結果、郡中惣といわれる地域権力が台頭しました。甲賀郡中惣は六角氏など周辺の大名権力を支えました。土豪達が百姓の若者に鉄砲を持たせて足軽化して細川氏や三好氏をはじめ諸大名の要請を受けたら傭兵として戦働きをするようになります。六角氏が織田信長に滅ぼされた後は甲賀衆は信長に雇われ各地の戦線に赴きます。しかし、天下人にとっては無節操に戦働きする甲賀衆、伊賀衆のような存在を否定せざるを得ませんでした。信長は2度に渡る天正伊賀の乱で徹底的に伊賀衆を叩き、秀吉は伊賀には筒井順慶、甲賀には中村一氏を配置して、それぞれ伊賀惣国一揆、甲賀郡中惣を解散させました。帰農するか浪人追放にするかさせたのです。

 

唐津城 佐賀県唐津市 続100名城

令和4年8月14日長崎の母方の祖父母の墓参りの帰りについでに車で母と行ってきました。佐賀県の北部にあります。

 

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天守閣と石垣

 

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復元天守閣

 

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ニノ曲輪の石垣

 

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ニノ曲輪への入り口付近の虎口

 

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唐津城趾碑

 

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大手門

 

唐津城は豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が慶長7年(1602年)から7か年の歳月を費やして完成しました。築城には名護屋城の解体資材を用いたと伝えられ、城を要にした砂浜が翼を拡げた鶴のようにも見えることから、別名「舞鶴城」とも呼ばれています。その城主には、寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原の諸氏が任ぜられた。正直このお城については私あまり存じ上げてませんでした。

 

場内は資料館になっていました。

 

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朱漆塗紅糸威仏二枚胴具足

 

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小笠原長行所用の兜

 

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天守閣から望む唐津湾の景色

 

遠くには虹の松原がある。寺沢広高が慶長年間から植林したもの。約100万本の黒松の群生は潮風を防ぎ、この地に豊かな農地をもたらすことになった。
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唐津城全体図

 

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限定版の御城印

 

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お土産に唐津焼のぐい飲みとくじら松浦漬と唐津くんちミルクキャラメルを買いました。唐津くんちとはここ唐津で11月に開催される収穫感謝の意が込められているお祭りです。

 

久留米城 福岡県久留米市 続100名城

令和4年8月13日久々に実家にお盆帰省しました。ちょっと自由な時間があったので、まだまだ蒸し暑いですが、久留米市まで車で行きました。

 

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巽櫓と城壁

 

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月見櫓と城壁

 

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内堀

 

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大手口と冠木御門(かぶきごもん)

 

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本丸跡に立つ篠山神社

 

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城の周囲は筑後川が天然の堀として守っている

 

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初代藩主有馬豊氏

 

久留米城は、古くは笹原城と呼ばれていました。天正15(1587)年に入場したのが毛利秀包で、その後、田中則政が居城しました。その後、有馬豊氏は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで東軍に与し、さらに大阪の陣においても徳川方として活躍したことから、丹羽篠山8万石から久留米21万石に加増転封となりました。以後廃藩置県まで有馬氏が存続しました。

 

有馬氏は村上源氏の流れを汲み、後醍醐天皇の皇子護良親王に従い、軍功のあった赤松律師則祐の子義祐が播磨国より摂津国有馬郡に居を移して「有馬」を称したといいます。

 

14代頼寧(よりやす)は伯爵で農林大臣も務めた。日本中央競馬会理事として中山グランプリ(現:有馬記念)を創設。

 

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久留米城縄張り図(久留米市教育委員会)

 

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御城印がちょっと高いのとサイズが大きすぎたので代わりに御朱印を購入しました

 

有馬記念館という資料館を見学させていただきました。有馬家の刀や薙刀、徳川家康、秀忠、吉宗からの書状が展示してありました。

 

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帰りに久留米に本店がある大砲ラーメン本店に久々に行きました。だいぶ待ったけど、昔ラーメン美味しかったです。替え玉もしました。久留米といえばチェッカーズを生んだ町ですね。藤井フミヤさんも来たことあるのでは。

 

一乗谷城 福井県福井市 100名城

令和4年7月17日久々に家族旅行に行きました。京都から湖西道路を使って3時間くらいでした。ずっと行きたいと思っていたのですが、なかなか実行できずやっと行けました。朝倉氏が開いた街並みです。福井市ですがだいぶ山あいに入った内陸部にあります。山の上に城跡はあったのですが、片道1時間かかることと熊が出るとのことで断念して麓の街並みだけ散策しました。

 

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朝倉館唐門

 

朝倉氏は但馬国朝倉庄(現兵庫県養父市)の豪族で、その地名を名前の由来にしています。南北朝時代に越前守護斯波氏に従って越前に入国し、地頭として一乗谷近隣を支配の拠点にしました。

 

戦国大名朝倉氏の初代当主の孝景は、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに、1471年に幕府から越前守護に関する要望を認められ、以後氏景、貞景、孝景、義景と5代にわたって越前を統治しました。この間、一乗谷には京の貴族や僧侶など文化人が訪れ、北陸の小京都とま呼ばれるほど隆盛を誇りました。しかし、天下統一を目指す織田信長と対立し、1573年に朝倉氏は滅び、城下町も焼き払われました。

 

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朝倉館内部

 

後に室町幕府15代将軍となる足利義昭もここに招かれ厚遇された。しかし、朝倉義景は上洛せず、代わって織田信長とともに上洛するとこになりました。

 

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朝倉館内部

 

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湯殿跡庭園

 

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朝倉義景

 

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復元町並

 

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朝倉氏黄金の甲冑

 

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明智光秀居住推定地

 

明智光秀は美濃で仕えていた斎藤道三が息子の義龍に敗れると一時、越前の朝倉義景に仕えたと言われています。

 

光秀と妻煕子との間に娘玉子が産まれた地とされる。

 

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明智神社

 

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一乗谷城御城印

 

現地で戦国宝探しというイベントがあっていて、家族と一緒に楽しむことができます。最初は子供だけでできるものとたかをくくっていましたが、内容を見ると大人が手を貸してあげないと難しいことが分かり段々とこちらが子供より一所懸命になってしまい、同じとこを何度も何度もぐるぐる??気候も夏真っ盛りで暑さと歩き疲れでもうくたくたでした。2つあった問題の内1つは解けましたが、もう1つは分かりませんでした。悔しかったなー

 

この後、夜まで考えて何とかもう一問も解くことができました??

 

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かわだ温泉ラポーゼかわださんで美味しいご飯をいただきました。疲れた体に日本酒が沁みました。
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翌日は若狭の方まで戻って子供たちと釣りを楽しみました。

 

新田義貞を祀った藤嶋神社とか丸岡城も行きたかったけど時間がなく断念しました。また福井県行こうと思います。

 

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福井名物羽二重餅と

 

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若狭町で地ビールと梅酒ハイボール買って帰りました。美味しかった。