小倉城 福岡県北九州市 続100名城

お盆休みが以外に長いことが分かり、平成30年8月16日急遽福岡に帰省しました。
祖父母の墓参りのついでに近くの北九州の小倉城に寄りました。続100名城としては2つめです。

 

小倉城は1569年に安芸の毛利氏がこの地に建てたのが始まりです。1570年には大友氏家臣の高橋艦種が入り、1587年には豊臣秀吉の家臣毛利勝信が入場して織豊系城廓へと改修した。さらに、江戸時代初期には細川忠興が大改修を施し、現在の城姿が完成する。細川氏の熊本転封後、小倉城は江戸時代を通じて小笠原氏の居城となる。幕末の第二次長州戦争(長州側では四境戦争)では幕府側として戦い、高杉晋作の攻撃を受けて敗れ、自ら城に火を放ち、ほとんどの建物が消失した。
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現在では城内北の丸に八坂神社があります。
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北の丸門
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多聞口門から天主への道
枡形虎口のようです。
細川忠興が築いた天守は最上重以外は破風が一切ない層塔型であったが、昭和に入って作られた復興天守は大きな入り母屋破風ほか多くの破風を持つ望楼型で再建された。
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実はこの日天守の内部にエレベーターを入れる工事中で中には入れませんでした(>_<)残念。来年3月くらいまで入れないようです。

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大手門跡

 

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野面積みの石垣

 

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下屋敷跡にある小倉城庭園入口に100名城スタンプがあったのでゲット??
庭園には入りませんでした。
敷地内に松本清張記念館もあります。

 

二の丸あとにあるリバーウォーク小倉というショッピングモールで子供向けのお祭りがやってました。息子たちは当て物や射的楽しんでました

 

鶴丸城址 鹿児島県鹿児島市 100名城

ゴールデンウィーク帰省をして平成30年5月3日、4日で家族旅行で鹿児島に行ってきました。現在、大河ドラマ「西郷どん」があってますが、これに影響された訳ではなく前から行ってみたかったのです。

 

九州新幹線ができたことで、福岡から鹿児島までがだいぶ近くなりました。1時間半でいけます。
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鹿児島といえば、桜島ですね。今日は右側に噴煙が出ています。灰が降らずに良かったです。

 

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鹿児島城(鶴丸城)に行きました。先程の照国神社から歩いていける距離です。最初は中央の一荘園領主に過ぎなかった島津氏が戦や婚姻により領地を増やしていき鹿児島全土を手中にしました。一時期は九州全土に覇をとなえますが、秀吉の九州征伐によりその勢いを止められます
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遺構としては外堀と石垣ですか、内部は現在発掘中です。2020年に復興大手門が完成するようです。内部は黎明館という歴史博物館があります。100名城のスタンプ、島津氏の鎧、西郷さんの軍服がありました

 

他にも南部の知覧や指宿にも足を伸ばしました。
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お土産に薩摩切子のお猪口、薩摩揚、かるかん、芋焼酎、黒酢も買いました。
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天文館でしろくまというかき氷も食べました。おいしかったですよ。

 

福知山城 京都府福知山市 続100名城

平成30年4月30日昭和の日の振り替え休日に急遽、福知山市にある福知山城に行きました。

 

なぜそこに行ったかというと、最近、続100名城が発表されたのですが、京都でただひとつ福知山城が選ばれたからです。ちなみに100名城には二条城だけ入っています。
続100名城はよく分からないのですが、歴史ファンと地元を盛り上げようとする地方自治体の声に答えたという感じでしょうか?やっと本をゲットしました。
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実質200名城になってしまいましたが、本を読んでみると、何でこんなとこが?みたいなとこもたくさんあります。こんなこというと地元の人に怒られそうですが。しかし、もっといい呼び方なかったのかな〜100名城パート2とか100名城 下とか100名城番外編とかもっと最初の100名城と差別化してもいいのでは?と思ってしまいます。
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というわけで、福知山城ですが、京都市からは縦貫道を使って2時間かかりました。??
息子2人を連れての旅となりました。もちろん途中でくずらないように、ちゃんとお菓子という餌を与えて。
いやーでも地方独特の一車線対面高速道路は中央分離帯がゴムのポールみたいなやつなんでいつも緊張します((( ;゚Д゚)))いくらこっちが気を付けていようが対向車がちょっとハンドル操作誤れば即死ですからね。
14時過ぎに出たので着いたのはもう16時半。お城に着いたときにはもうあと30分で締まりますとのこと??
早速、続100名城スタンプを押して、天守閣に登りました。???

 

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福知山城はあの明智光秀さんが信長さんに命じられて丹波、丹後地方平定のために建てられました。その後、皆さんご存知のように本能寺の変が起きたあとは、様々城主が変わりましたが、最終的には朽木氏に落ち着き明治維新の廃藩置県を迎えます。
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光秀さんの桔梗紋兜の鎧です。レプリカです。
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この天守閣、昭和に入って作られた模擬天主ですがかなり精巧な作りになっています。天主4階から見える福知山市内です。いい眺めですね。光秀さんは善政を敷いたことでも知られ、今でも市民の方に慕われています。そういえば、滋賀県の坂本も領地でして同じようなこと言われていますね。ちなみに光秀さんは再来年の大河ドラマの主役に決まったそうです?

 

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石垣は当時のものです。工事を急いだからなのか、石が不足したからなのか転用石という五輪塔の一部なんかを使用しているのが分かります。

 

息子たちも楽しんでくれて良かったです。

 

帰りも時間かかるし、そうそうに引き上げました。もう少し早めに出て、もっとゆっくり見たかったな〜。

 

吉野ヶ里遺跡 佐賀県神崎郡吉野ヶ里町 100名城

今晩は。久々の100名城報告文です。平成29年5月5日ゴールデンウィークで福岡に帰省してます。家族との旅行ついでに佐賀県神埼郡吉野ヶ里町にある、吉野ヶ里歴史公園に行ってきました。

 

吉野ヶ里遺跡というのはいわゆる弥生時代の遺跡です。ここが何故か100名城に入っているのです。なのでいつものお城とはちょっと違います。ここの他にも何故か入っているものとしては北海道のアイヌ人の遺跡や岡山県の鬼の城なんかもあります。

 

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最近東脊振有料トンネルなるものができて、山を越えたらすぐに吉野ヶ里町に入れるので福岡市からのアクセスが便利になりました。
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昔ここがオープンした当初、僕がまだ小学生だったころに来たときはまだショボく見所も少なかったのですが今ではこのように広くなり中身もかなり充実していました。家族とバーベキューができたり、子供の広場があって家族連れのかたは1日中いても飽きなさそうです。

 

ただ今回は他にも行くところがあったので、東口から入って一番近かった南内郭だけを見てきました。
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集落を守るための逆茂木を再現してあります。
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敵の襲来に備えたり応戦するときに使う大手門櫓を再現したものです。こう見ていると戦国時代の城のベースがここから産まれてきたのかなと思えます。
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物見櫓を再現したものです。これは登ることが出来ませんでしたが、登れるものもありました。凄く高く公園全体が見渡すことが出来ました。

 

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大人(たいじん)の妻と娘が住む竪穴式住居を再現したものです。
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大人(たいじん)の妻が娘の髪をとくところだそうです。古代人の生活がうかがえます。
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男たちが刃物を研いだり、弓矢の手入れをしています。
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塀の内堀を再現したものです。
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発掘された土器が展示されてありました。

 

この後、すぐに出たのですが、巨大な祭殿のある北内郭や甕棺墓列なんかも見たかったです。

 

古代のことはあまり分からないですが、天皇について興味があるのでいくつか本を読みました。中でも加治将一さんの初代天皇は誰だったのか?というものが記憶に残っています。その中には朝鮮半島から渡ってきた壱岐族、対馬族が九州北部に勢力を伸ばし朝鮮南部と九州北部に国を持つ邪馬台国があり、中国大陸からの魏などの襲来を恐れて近畿方面へ移動したのが神武東征の真相ではなかったのかと言及していました。そして近畿にできた王朝が大和朝廷で、もうひとつの大国である出雲国と戦い制圧してして行くといったものでした。

 

邪馬台国の近畿説と九州説は今でも論争されていますが、確かにぽっと日本のど真ん中に強力な国が発現するのよりは、大陸から近く文字や鉄を使う文化が入ってきやすい九州にあったというほうが納得いきます。

 

もし邪馬台国が九州にあったなら、この吉野ヶ里もその中の一都市だったんでしょうね。

 

今後の解明が楽しみです。

 

今回はお土産を買ったので、載せてみます。

 

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佐賀県といえば、外側がかりかりで甘い小城羊羮です。あと嬉野茶も有名です。

 

江戸城址 東京都千代田区 100名城

平成28年8月23日友人の結婚式があるということで東京へと行きました。
浅草のホテルはあまりいいとこではありませんでしたが、10時まで充分に休ませてもらいました。ここから東京駅に戻り、お土産を買いました。皇居周辺をブラタモリして15時から始まる結婚式に間に合うよう駅に戻るよう計画しました。

 

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まずは大手門から江戸場内へと入ることにしました。ここに来るまでの丸ノ内というオフィス街、高層ビルが多くいかにも東京という風景でした。守衛のおじさんに楠木正成像を聞いたところだいぶ離れていたので、それは最後に見ることにし、とりあえず皇居東御苑を通って北の方に歩くことにしました。

 

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大手門から見るお堀
今日は昨日とうって変わって晴天です。

 

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役人の詰所だったところ

 

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天守台
徳川2代秀忠、3代家光の時代に最大の天守閣が作られたが、明暦の大火により焼失して以降は作られていない。ほんまに外人さんばかりいました。ここからさらに北に行き、道路を渡って北の丸公園に向かいました。

 

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日本武道館がありました。この日は空手の大会があってたようです。ちょうどお昼だったので食堂でご飯を食べました。この近くの北の丸休憩所に100名城スタンプがあったのでゲットしました。実は私、昔剣道をしてまして、この武道館で小学校と中学校のころ全国大会に出ました。しかも私の行っていた福岡の道場が名門で先輩達が優秀だったため優勝旗変換と選手宣誓という大変名誉ある仕事をやらされました。まあ僕達はベスト8までしか行けず仕舞いでしたが、いい思いでです。武道館があの頃に比べると小さく感じました。

 

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田安門を抜けて、靖国神社の門前のほうへ。靖国へは何度か行ったので今回はカッツアイ?

 

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乾門
江戸場内の西側部分は皇居のため警察が警備しており入れません

 

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半蔵門
あの有名なハットリ君ですね。本能寺の変後の家康の伊賀越えを導いて命を救い、大きな信頼を得た人です。本能寺の変の真実については色々ありますが、過去ブログにも書いたので、見てみてください。

 

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国会議事堂
永田町です。まさに日本の中心地ですね。この辺都民ランナー多いですな。私も早く終われる仕事ならマラソンしたい。

 

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警視庁
ドラマ相棒を思い出します。警視庁て東京24区の警察なんですよね。いわゆる県警とか府警みたいな。なんで都警て言わないんだろー?警察庁となんだか紛らわしいですよね。

 

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桜田門
やっと入れる門がありました。ここで幕末にあの大事件が起きたんです。老中井伊直弼が水戸浪士、薩摩浪士に暗殺されました。大雪の日だったといわれています。井伊直弼はペリーに押されて、強硬開国に踏み切ったり、それに反対する人達を安政の大獄により刑死させました。それに激憤した攘夷派による犯行でした。まさに歴史を動かした大事件です。その後、京都での天誅騒動、新撰組の登場、長州、薩摩の台頭などなど激動の時代に入って行きます。

 

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最後に皇居正門です。

 

この後、シャングリ・ラホテルというとこで友達の結婚式に参加しました。ご夫婦とても幸せそうでいい式でした。久々の友達にも会えたし良かったです。他にも行きたいところたくさんありましたが、いい東京旅行でした。

 

伊賀上野城 三重県伊賀市 100名城

平成27年11月3日に三重県の伊賀市にある100名城の伊賀上野城に長男と行ってきました。京都から下道で2時間半かかりました。帰りは高速を通って1時間半でした。三重県といえば遠く感じるのですが、実は伊賀は京都と滋賀に挟まれたとこにあり、京都からは以外に近いのです。

 

行きがけ車に酔った息子が吐いちゃうというハプニングがあり出だしはつまづきましたが、ゲロ臭い車内はともかくなんとか無事到着

 

伊賀と言えば徳川家康に仕えた服部半蔵で有名な忍者の里ですね。最近子供の見る戦隊ものでニンニンジャーというものが流行っており、そのせいか、この日は上野城の敷地内にあり忍者博物館をお目当てに家族つれが多い(>_<)

 

まずは忍者博物館に行ってみよう。

 

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忍者屋敷にてからくり部屋を見て回り、

 

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忍者おじさんの講義を受けて、忍者ショーも見ました。可愛いお姉さん忍者がバクテンとかして大暴れ!!写真がないのが残念(ToT)
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何とも立派なお城である。1608年家康に仕える築城の名手、藤堂高虎が伊予今治城から移って築城した。現存天守は1935年に再建されたものです。それでは中へ入ってみよう。

 

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藤堂高虎公 

 

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藤堂高虎公像

 

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高虎が秀吉から拝領した唐冠形兜(とうかんなりかぶと)

 

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天守から見える伊賀市街

 

平戸城 長崎県平戸市 100名城A

翌日 、まず松浦史料博物館に行きました。ここは松浦鎮信が日の岳城焼却時に、代わりに政務を行った御館をその子孫が博物館として提供したものです。

 

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松浦家に伝わる鎧

 

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ポルトガルより伝わった鉄炮

 

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1550年鹿児島の次にここ平戸にやってきたフランシスコザビエル。ここでも100名がキリスト教の信者となった。しかしカトリック勢力による植民地化を恐れた豊臣秀吉、徳川家康により迫害された。

 

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隠れキリシタンの旗

 

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隠れキリシタンのロザリオ

 

松浦氏は初めはポルトガルとうまくやっていたが、貿易だけを望む松浦氏と貿易をするならキリスト教への改宗と布教を認めろとせまるカトリックのポルトガルは当然うまくいきませんでした。その後遅れてやってきたプロテスタントのオランダやイギリスは布教をせずとも貿易だけしてくれるということで、松浦氏との関係はうまくいったのです。この時、後に家康の側近となるウイリアムアダムスが大いに活躍します。その後平戸を追われたポルトガル船団は長崎へと行き着き大村氏に庇護されます。敵対勢力の竜造寺氏などに対抗するため大村氏は軍事力技術力を得るため改宗し、領地の一部をポルトガルに割譲します。こうして長崎は寒村だったのが南蛮風の都市へと姿を変えるのです。しかしこのことが当時の為政者だった秀吉や家康の不信感を得、キリシタン弾圧を受け、多くの悲劇を生みました。また天草四郎を中心とした島原の乱が起き、長崎は幕府の直轄領、天領になるのです。

 

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松浦史料博物館の敷地内に茶室閑雲亭がありました。

 

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ここでお茶をいただきました。この黄色いお菓子カステラに砂糖をまぶしたカスドースという南蛮渡来のものです。平戸にしかない珍しいものなんでお土産に買いました。

 

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松浦鎮信公像

 

その後、父と次男とで平戸城に行きました。松浦家26代鎮信が徳川家康の猜疑心をかわすため自ら日の岳城に火をかけた。がその後30代棟の時代に幕府自社奉行になり、城の再築が認められ山鹿流にて平戸城が完成した。版籍奉還により城は破却されるが、1962に模擬復元された。

 

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北虎口門 裏

 

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北虎口門 表

 

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天守閣

 

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城の全域の図
亀岡山に築かれている。
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松浦34代清の第11女愛子は京都の中山大納言家に嫁いだ。その姫慶子は明治天皇の御生母となる。

 

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松浦氏は嵯峨源氏を祖とする元々この辺りを領する水軍でした。足利尊氏が北畠顕家にやぶれて京都からこの九州まで落ちてきた時に、多々良浜の戦いの時に足利軍に味方しました。そのための感状と所領安堵の書状を尊氏からいただたいています。

 

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天守最上階からの町を見渡す風景

 

本当に天気が最高でした。またこの平戸では台湾の英雄鄭成功が生まれたとこです。彼の記念館があったんですが時間がなく行けなかったのが残念でした。

 

平戸城 長崎県平戸市 100名城@

平成27年9月20日シルバーウイークを利用して実家の福岡に家族と帰り、久々に両親と妹と再会して長崎の平戸に行ってきました。平戸は九州の西北の端に位置します。かつては長崎に出島ができるまでは交易で栄えた町ですね。今でもオランダ商館跡やイギリス商館跡や教会があります。久々の100名城です。福岡からは母方の祖父母の墓参りをしたのでちょっと遠回りしたので3時間半くらいかかりました。
平戸海上ホテルに泊まりました。海を見渡せる素敵なロケーションです。このホテル、観光バスによる夜の史跡案内をやってくれました。

 

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夜のライトアップされた平戸城

 

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ザビエル教会

 

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オランダ橋

 

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森酒造さん。ここで夢名酒というワインのような香りの日本酒を買いました。左側が夢名酒で、右側はじゃがたらお春といってなんと!!ジャガイモの焼酎です。珍しいので買ってしまいました。ポルトガル人と結婚したがために夫と共にジャカルタへと追放されたお春さんという方の悲しい物語があるようです。

 

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その日の夕食には鮑が出ました。

 

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ヒラメの刺身も久々に食べれました。おいしかったな〜

 

次に続く

佐賀城 佐賀県佐賀市 100名城

平成27年元旦に長男を連れて行ってきました。雪がひどく、三瀬峠が凍結してタイヤが対応できないだろうということで、迂回して車で行ったら2時間かかりました。佐賀が雪が積もってなくて良かった。

 

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肥前佐賀の鍋島氏のお城です。龍造寺氏の家老からとって代わった鍋島氏ですが、明治期まで続いた名家です。とくに直正(かんそう)は開明派のお殿様で明治維新に大変貢献しており、薩摩、長州、土佐にならび肥前を押し上げたです。

 

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鯱の門は明治時代の佐賀の乱の時、新政府軍の攻撃を受けた際の弾丸の跡が今でも残っています。

 

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アームストロング砲は佐賀藩が欧米との貿易により手に入れたもの。戊辰戦争時に旧幕府兵が立て籠る江戸、上野の寛永寺を攻撃する際に用いられ、その射程の長さと着弾の正確さから大いに活躍しました。

 

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佐賀藩は欧米の技術者を呼び、このような鋳造所を建て、大砲や銃などの兵器や軍艦までも作っていた。

 

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佐賀藩の作った蒸気船。

 

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復元本丸史料館の外観

 

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佐賀藩出身の大隈重信は新政府で活躍。大久保利通の信頼があつかった。後に総理大臣になった。早稲田大学の創始者でもある。

 

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江藤新平は明治政府初の司法卿。征韓論論争では賛成派で西郷をおすなどして、大久保利通とは意見が合わなかった。大久保にはめられた形で佐賀の乱の首謀者と見なされ、逮捕され斬首された。この時自分が欧米から採用した写真による指名手配制度で日本史上初の逮捕者がまさかの自分であるという大失態を犯した。

 

この日たまたま歴史史料館ないで新春の凧作りが開催されており、息子とやりました。外で遊んだのですが、強風で思った以上に凧が上がってくれました。息子も楽しんでくれて、帰省の思い出が出来て良かったです。

 

福岡城址 福岡県福岡市 100名城

明けましておめでとうございます。平成26年12月30日から1月3日まで福岡に帰省しました。今回は次男を初めて連れての帰省です。とりあえず子供たちが風邪ひかないかだけを1カ月心配してきました。インフルにでもかかったら全てがオジャンですからね。
12月31日は後で合流して水炊きを食べに行くということで、午前中にいそいで福岡城に行ってきました。近いがゆえに行ったことがないところでした。去年、大河ドラマであった軍師官兵衛に関するところで黒田長政が作ったところです。関ヶ原の合戦の功から筑前に53万石の領地を得たことで長政はここに城を構え、黒田の発祥地備前福岡村にちなんで福岡城と名付けました。福岡市中央区舞鶴にあります。中心部である天神からは少し離れています。
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車を福岡市美術館の駐車場に停めて歩きだしました。

 

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まず見えて来たのは多聞櫓の石垣です。

 

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多聞櫓は黒田24騎の一人野口一成が作ったとのこと

 

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本丸址です。何もないですね〜

 

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天守台です。工事中で上には登れませんでした。

 

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福岡城には徳川を警戒させないために天守がなかったとも言われてますが、実は最初は上の再現図のような天守があり短期間で壊されたという説もあるようです。徳川の秀忠、家光の時代に外様大名は次々と潰されていったので黒田家もだいぶ気を使ったのでしょう。

 

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城のふもとに護国神社があります。 昔、小学生のころ剣道をやっていて、この神社の境内で試合をやったな〜なんてことを思い出しました。

 

実はこの日、100名城のスタンプが置いてある香櫨館跡史料館は休業でしてスタンプはゲットできませんでした。残念!!調べずに行ったのが悪かった(--;)

 

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後日、博多駅で黒田節で有名な母里太兵衛の像をとって福岡をあとにしました。福島正則から拝領した日本号の槍が折れてたみたいでテープがまいてありました。もこみち君熱演でしたね。

 

福岡城に関して天守を再建する計画あるようです。福岡人としてはぜひやってほしいですよね。というか、ここになぜ官兵衛や長政の銅像がないのかな〜?また黒田家代々の家宝を集めた史料館を作ったらいいのにと思ってしまいました。福岡市はもっと郷土の歴史に興味を持って、力を注いでほしいです。