和歌山城 100名城 和歌山県和歌山市

昨日平成26年7月13日と今日14日で、和歌山に家族旅行に行ってきました。京都から阪和道を使って3時間くらいでした。現在の和歌山城は太平洋戦争時に焼け落ちたものを、コンクリートで復旧したものです。徳川時代の形のもので、御三家の一つ紀伊徳川家の居城であり、紀伊徳川家からは暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗や幕末の徳川家茂を出しています。この日京都は雨で心配しましたが、和歌山はご覧の晴天で良かったです!!徳川家の前には、浅野幸長、その前は羽柴秀長が治めていました。羽柴時代に藤堂高虎が普請奉行を勤めた最初の近世城郭です。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
連立式天守閣

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
天守閣の入口

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
二之御門櫓

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
天守閣

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
紀伊徳川家家臣の鎧

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
信長、秀吉に徹底交戦した雑賀集が使用していた鉄砲

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
紀伊徳川家に伝わる陣羽織

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
天守閣最上階からは和歌山市内の町並みと海に注ぐ紀ノ川、天気がよければ遠くに淡路島が見えるそうです。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
本丸跡はなんと給水場になっており、立ち入り禁止でした。残念。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
野面積みの石垣は豊臣時代のもの

 

これで関西の100名城は兵庫県の竹田城を残すのみになりました。この後、再び高速に乗り、白浜まで行き、白良浜を次男坊と散歩しました。時間も遅くギャルたちは少なかったです(*_*)お宿はホテル三楽荘さんに取りまして、美味しい海の幸を満喫しました。翌日はアドベンチャーワールドで子供たちと遊んで帰りました。いや〜子供たちの喜ぶ顔も見れて良かった良かった♪

 

小谷城址 100名城 滋賀県長浜市

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
これはバスステーションにあった兜

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
このガイドのおばちゃんなかなかの健脚でかなり詳しく歴史について教えてくれました。向こうに見えるのは織田信長が陣をしいた虎御前山。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
桜馬場跡

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
御馬屋跡

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
黒金御門跡
大河ドラマ「江」の1シーンでも使われたロケ地でもある。上野樹里さんも来たようです

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
本丸の石垣
穴太衆による3基積み?という製法と作られている。現在でも穴太衆の子孫は存在しており、城の修復に当たっているとの事。

 

平成26年4月27日久しぶりに家族全員でお出かけしました。滋賀県の長浜市というところです。自分は100名城の一つ小谷城に行き、その間に妻と子供達は市内の電車博物館にいてもらうことにしました。
小谷城とは戦国大名である浅井長政の居城で織田信長との戦いにより落城しました。姉川の戦い以降3年間篭城戦があったようです。最初は織田氏と同盟関係にあった浅井長政は信長の妹、お市との間に3人の娘をもうけます。そのうちの一人、江もここで生まれました。その後、姻戚関係にあった越前朝倉氏が信長と対立することになり、それに引きずられる形で長政と信長は戦うことになりました。戦況が悪い中、次々と味方が信長方に寝返っていき、ついには篭城者からも裏切りが出て落城することになったのですが、長政が自刃する際、お市と3人の娘たちは投降して命を助けてもらいます。その後お市は柴田勝家に嫁ぐことになります。まずは100名城のスタンプをもらいに小谷城戦国歴史資料館に行きました。ここから歩いて本丸まで行こうとしたのですが、1時間近くかかるとか、それになななんと「熊出没注意」とか恐いことが書いてあったので、ガイドさんつきのバスで途中まで行くことにしました。たまたまですが一緒にツアーに参加した方にここが100名城最期の地という人がいました。年配の方でしたが5年で北は北海道から、南は沖縄まで巡ったそうです。すごいな〜お疲れ様です。僕も関西の100名城は残すところ、あと和歌山城と竹田城の2つになりました。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
復元長浜城と羽柴秀吉像
ついでに秀吉の出世城こと長浜城にも行ってきました。 現在放映中の「軍仕官兵衛」では長男の松寿丸(後の黒田長政)が信長への人質として秀吉にこの城に預け られてますね。

 

御着(ごちゃく)城、妻我(めが)城、廣峯神社 兵庫県姫路市

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
御着城址に建つ姫路東出張所 城っぽい と官兵衛の顕彰碑(御着城址)

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
黒田重隆(官兵衛の祖父)とその妻の廟(御着)と官兵衛に関する史跡にはこのご当地キャラクター「かんべえ君」の旗が立ってるようです(御着)

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
妻鹿城の址です。姫路を秀吉に譲った後の黒田氏の居城です。この近くに黒田職隆の廟や母里太兵衛生誕地があります。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
栗山善助屋敷跡には灘菊酒造が建っています。そこにある2階建ての赤いバスに乗った息子はご機嫌です。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
灘菊酒造で黒田家の家紋が入ったおちょこととっくりを買いました。今夜は熱燗で温まります。写ってないですが甘酒用の酒粕も買いました。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
御師が広い範囲で活動していたという廣峯神社です。姫路城から北側の山の上にありました。ここからは姫路の町が一望できました。黒田重隆は御師の配るお札と一緒に秘伝の目薬を売ってもらい財を築いたとの事。その財を低金利で農民に貸し、その代わり黒田家に家来として雇うことにしました。300名ほどを抱えた重隆は御着の小寺氏に仕官することが出来ました。

 

平成26年1月19日に今年初の史跡巡り行ってきました。今回は100名城ではないやつです。今年の大河ドラマは「軍師官兵衛」ですね。岡田君がんばってください。豊臣秀吉の軍師というなかなかマイナーな人物です。でも私の地元福岡の名の元を作ったかたです。司馬遼太郎さんの「播磨灘物語」を読んで興味を持ち、ずっと行ってみたいな〜と思ってました。ここ姫路は官兵衛が生まれて青春時代を過ごしたところです。黒田氏は小寺政職から姫路城を任されましたが、当時は今のような(徳川時代に立てられた)立派ではなく規模も小さいものでした。今回はかんべえ君には残念ながら会うことはできませんでした。お昼は息子と一緒に明石焼きとホルモン焼きうどんを食べました。おいしかったな〜それにしても官兵衛最初の主君小寺政職役の片岡鶴太郎さんおもしろいですね〜九州、大分の中津城や福岡城址も行ってみようと思います。

高取城 奈良県高市郡高取町 100名城

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)

 

 

平成25年11月3日いつもの相棒とぷらっと奈良までドライブに行ってきました。高市郡高取町といって、奈良市をずっと南下したところにあり、京奈和自動車道を通って2時間半くらいかかりました。麓のたかとり観光案内所「夢創館」で100名城スタンプをゲットして、城に関する資料をいただきました。山の上に城があるのですが、本丸近くまで車で行って、10分くらい子供を抱えて登山したら本丸の石垣が見えてきました。自分が足を滑らしたら、子供にも怪我をさせるので冷や冷やしながらの急斜面でした。どうせ誰もいないんだろうな〜て思ってたら、意外にも数組の観光客が来てました。じゃっかん嬉しかった。この山には登山客もきてるようです。城に行き着く途中に、西国三十三所の1つ壷坂寺がありました。息子もどんぐりを発見してご機嫌でした。このお城、立派な石垣が残った100名城ということで来たのですが、誰が作ったのか?どういう歴史があるのか?全く知らないままやってきたのですが、資料によると、江戸時代に徳川家康の三河安祥時代からの譜代である植村氏が建てたとのこと。徳川秀忠、家光の小姓を勤めた植村家6代目家政が大名として取り立てられ、高取藩に入部したのが始まりと言われてます。明治維新まで続いた名家です。幕末の頃には、土佐の尊皇攘夷派、天誅組の土佐藩脱藩浪士那須信吾、吉村寅太郎ら1000人に攻められるが高取藩士らが篭城し撃退している。

 

肥前名護屋城址 佐賀県唐津市 100名城

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
左から東出丸櫓跡、二の丸井戸、本丸跡

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
左から本丸から呼子大橋を望む景色、壱岐対馬を望む景色、二の丸

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
秀吉が毎日、能や茶会をやっていた山里丸

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
左から名護屋城博物館、各部将の陣屋配置図、城の復元模型(5層の天守閣をを持っていた)

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
左から秀吉の兜、朝鮮渡海に用いられた安宅船の模型、朝鮮に築いた倭城の分布図

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
蔚山城で朝鮮、明連合軍に包囲される秀吉軍

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
呼子の旅館で食べた海鮮料理。刺身は久々でめっちゃうまかった。この後で出てきたいか刺しも良かった!

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
呼子の遊覧船くじらのジーラ

 

平成25年8月29日帰省して、家族と両親で呼子旅行のついでに行ってきました。イカの刺身で有名な呼子からは眼と鼻の先です。8月も終盤だというのにまだまだすごい暑かったので、嫁と息子と母は資料館で待ってもらって、父と2人で散策してきました。ここは豊臣秀吉が晩年に2度の朝鮮出兵をしたときの拠点となった城です。天下統一を終えて、すごい兵数で攻め込んだということもあり、この城の周りには名だたる武将の陣屋跡があったということです。そのほとんどが発掘されており、実際に見に行きたかったのですが、とても1日や2日で見て回れるものではないので今回は断念しました。当時は人口が数万を超える、京都にも並ぶ大都市だったそうです。

 

朝鮮出兵は秀吉が死ぬまで7年間行われた。それにしても、これまで読んだ本で予想するに、この朝鮮出兵の目的は家臣に与える領地が無いために行っただとか、元々農民で血縁のある旗本家臣団がいない秀吉にとって脅威となる部将の経済力をすり減らすためだとか言われており、本当に大儀の無いものでした。それに付き合った部将達も、ましてや巻き込まれた朝鮮の人たちもたまったものではないですよね。秀吉の死後は、石田三成を中心とする文治派と加藤清正、福島正則などの武断派を取り込んだ徳川家康との間で関が原の戦いへと繋がって行きます。

 

赤穂城 兵庫県赤穂市 100名城

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
大手門と二層隅櫓

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
本丸門と天守台跡

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
山鹿流軍学の祖、山鹿素行
赤穂城の築城は山鹿流軍学を参考にしている。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
大石内蔵助邸宅跡

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
大石神社入り口の大石内蔵助像

 

平成25年6月3日いつもの相棒と名神高速、山陽道を使って兵庫県の西の端に行ってきました。関西は梅雨入りしており、若干天気はぐづついていましたが、何とかもってくれました。最初に姫路城にもちらっと寄ったので、初めて1日に2城回るという強行日程でした。実はここ嫁とも行ったことがあるので2度目の来訪になります。その時は100名城スタンプラリーをやってなかったので、今回もう一度行くことにしました。赤穂と言えばあの有名な人たちのいたところですね。最近は年末に時代劇をしなくなったので若い人には知らない人も多く、せっかくの良いお話を日本人はこのまま消しちゃうのかな〜なんて思ってしまいます。こんなとこに住んでた人がよく、東京の主君の仇の家に敵討ちに行って、よく成功したな〜と思います。そういえば家の近くに大石神社なるものがあって、12月の討ち入りした日には毎年山科義士祭りをやってます。リーダーである大石内蔵助は、討ち入りの機会を待つ間、京都の大石神社のあたりに潜伏していたそうです。そして毎日祇園で遊びまわって、幕府の警戒の目を欺いていたとのこと。昔、就活をしてたときに東京の泉岳寺に行ったことがあります。そこには浅野匠守を中心として周りに47士のお墓がありました。本懐遂げて満足だったんだろうけど、彼らの残した家族はそれからが大変だったんだろうな〜100名城も関西は残すはあと5城になりました。今年中の目標としてあと、滋賀県小谷城、奈良県高取城、大阪府赤坂城は行きたい!!

 

観音寺城址 滋賀県近江八幡市 100名城

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
観音寺城の石垣

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
井戸跡と観音正寺

 

平成25年5月8日息子と2人でJRとタクシーを使って行ってきました。JR安土駅からタクシーに乗ったので往復でかなりの高額になりました。マイカーで行かれることをお薦めします。駅から歩くのはかなりの時間と根性を要します。室町時代に近江の南部を治めていた佐々木六角氏の居城(近江の北部を治めていたのは佐々木京極氏)で100名城の一つです。一般人から見ると、ただの石ころしかないこの場所が、なぜ100名城に選ばれたかというと、100名城選定委員からの推薦は少ないが、城郭発達史や地域的特色から欠かせない城ということや歴史的事件の舞台になったということかららしいです。確かにここはきぬがさ山という広大な山に建てられた中世を代表する山城(平時は麓の居館で生活し、戦時にだけ使う城)であり、また織田信長の上洛時に六角氏との間で大きな戦があった場所ではあります。もともとは西国33所の1つ観音正寺が605年に建てられて、その後この辺りを治めた六角氏がそれを庇護し、1468年に城を建てたとのこと。西国33所巡りというものは、通の間では結構流行っているらしく(大抵が年配の方だが)、お寺やそれを取り巻く仏像はすごく立派でした。それに比べると、城址の荒れ方のひどいこと、ひどいこと・・・お寺から本城址までは草ぼうぼうの道なき道でやぶへび出てきそうだし、城址も枯れ枝、落ち葉、倒れた木の散乱状態はもう最悪。大阪城や名古屋城のように万人が一目見て城と分かるところには観光客も多く収入があり、このようなとこはめったに人が来ないため収入がなく仕方がないとは思いますが、滋賀県も市も100名城に推薦して、認定された後に放置するのではなく、せめて手入れくらいして欲しいですね。子供が走り回ってたけど、何度もこけてました。なお信長の安土城はここから目と鼻の先にあります。

 

明石城 兵庫県明石市 100名城

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
天守台跡から見る未申櫓と展望台から見る明石海峡大橋

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
東芝生広場の枝垂れ桜と明石城武蔵の庭園

 

 

平成25年4月7日息子と2人で兵庫県明石市の明石城に高速道路を使っていってきました。100名城に入っていると言う単純な理由です。京都を出る頃は雨が降っており、天気が心配でしたが、西に行くにしたがって天気が良くなっていき、到着したころにはご覧のような天気でした。ただ風がめっちゃ強かった。桜はもうほとんど終わりかけでしたが花見に来ている大学生や社会人の人たちが多かったです。今年は京都で花見できてなかったので、最期のきれいな桜見れて良かったです。2歳になる息子にはスパルタかもしれませんが石段を全部一人で登らせました。いや〜成長したな〜。まだまだお城がなんなのか分からないし、展望台からに見える走る電車を見て大喜びでした。城の遺構として唯一残る2つの櫓には入ることが出来ました。城の下は公園が整備されているので息子は元気いっぱいはしゃぎまわってました。この城は徳川2代将軍秀忠の時代に西国諸藩に対する備えとして小笠原忠真により建てられたものです。といっても、はっきり言って私この城のこと全く知りませんでした。名将が建てたとか、大きな戦があったわけでもないのになぜ100名城に入ってるのか申し訳ありませんがよく分かりません。ただ桜はきれいでした。

 

 

 

大阪城 大阪府大阪市 100名城

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
大阪城天守

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
豊国神社の豊臣秀吉像

 

平成25年1月13日今年最初はおめでたい人が建てたお城ということで大阪城に行ってきました。家族3人で高速を使って行きました。ここは元々は蓮如、顕如が治めていた石山本願寺があったところですが、織田信長により制圧され、豊臣秀吉により大阪城が建てられました。現在のものより大規模であったと伝わっています。近年の発掘調査では、秀吉時代の石垣も地下から発見されています。秀吉の死後、徳川家康との大阪の陣により豊臣秀頼は攻め滅ぼされました。そして現在規模で新たに城が建てられました。と言っても、昭和の戦時中に空襲被害を受けて城は焼け落ちたので、天守閣は戦後に建てられたものです。つまり現在の城は徳川時代の大阪城なのです。また名古屋城同様中にはエレベーターがあります。大手門前には秀吉を祀った豊国神社がありました。出世のご利益があるということなので一応お参りしておきました。日本の歴史上で秀吉のように先祖一族が武士ではない農民の一子息が一時は全国を統一したというような大出世はないのでないでしょうか。源頼朝にしろ、足利尊氏にしろ、織田信長にしろ、徳川家康にしろ先祖代々が武士で基盤もありました。秀吉は当然頭も良かったでしょうが、それに加え人望や世渡りのうまさや何と言っても信長の家臣になれたという運が大きいですね。まあでも晩年はおかしくなってしまって、家臣に領地を与えるためになのか、家臣の力を削ぎたいのか分かりませんが2度に渡る朝鮮出兵をやってます。秀吉時代には城の縄張り、外堀もそうとう広かったようです。どんな城だったんでしょうね。金の茶室を作るくらいの派手好きな秀吉なのでそりゃもう今の天守と比べると全然違った豪華な城だったのでしょう。NHK大河ドラマの「秀吉」はおもしろかったですね〜竹中直人うまかったな〜。もう一度見たい。

 

着いたらお昼だったので、まず売店でたこ焼き、うどんなど、これぞ大阪て食べ物で腹ごしらえしました。非常に寒かったんでうどんの汁が身にしみました。天守の中に入ると、外のほうが楽しかったのか、くずる息子を嫁に任せて展示物を見てきました。覚えてるものとしては、千石久秀の鎧、細川忠興の軍扇、秀吉の軍配、大阪の陣の屏風そして、なぜか南北朝時代の護良親王の刀がありました。ちょっと意外だったので見入ってしまいました。それにしても中国人、韓国人の観光客多かった。何度もカメラのシャッター押すの頼まれました。恥ずかしいけど、おきまりの「はいチーズ!」と言ってしまいました。あれ何で言ってしまうのかな〜中国語では何て言うんやろ?あと城の周りをランニングしてる人も多かった。何か生活に溶け込んでる感じですね。この城のお堀はかなり立派です。江戸城に次ぐくらいの大きさやないかな〜。
全然計画性はないですが、今年も色々と史跡、100名城を回ってみます!

 

熊本城 熊本県熊本市 100名城

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
二様の石垣 
最初はなだらかですが上に行くほど急峻になり敵の侵入を阻みます

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
城内の大銀杏 
清正は朝鮮出兵時、蔚山城篭城戦の教訓で城内に多くの銀杏を植え、多く の井戸を掘った。

 

平成24年8月13日前日家族で阿蘇温泉旅行に行った帰りに行ってきました。俺みたいな歴史マニアなんてそういないだろうみたいな軽い気持ちでいくと・・・もう駐車場は満車でなかなか入れない。城周りにも人がわんさか。最近よく観光地で見かける中国人の富裕層観光客もちらほら。そしてお前ら絶対加藤清正のかの字も聞いたことないだろうみたいな、絶対歴史に興味ないような方々まで。要するに熊本に来たら、とりあえず行っとこか的な感じでしょう。まあ内の嫁も母もそうですけどね(泣き)
ここは豊臣秀吉の家臣で、後、関が原では石田三成嫌いのため東軍の徳川家康に付いた築城の名手、加藤清正公が築いたお城です。対島津戦を想定して強固な造りにしたそうです。それから200年後本当に対島津戦(日本最後の内戦といわれる西南戦争)がおこるとは清正でも思わなかったでしょうが。しかも熊本鎮台司令官の谷干城は西郷隆盛軍の猛攻をしのぎました。司馬遼太郎の「翔ぶが如く」にありましたが、西郷は「我々は新政府軍に敗れたのではなく加藤清正(が作った城)に敗れた」と言わしめたほどの堅固さなのです。
まあ加藤氏は清正の後、あっさり改易となりその後は細川氏が転封され以後明治維新まで続きます。あの細川護煕内閣総理大臣を産んだ細川氏です。
清正は武将としても有能ですが、城造りも上手でした。名古屋城の築城にも関わっています。この熊本城は広さだけでいったら大阪城よりも広いんじゃないでしょうか。まあ現在の大阪城は徳川時代に修復されたものですから、豊臣時代はもっと広かったみたいですけど。ただ歴史マニアとして誇りに思いたいのはこの城には、大阪城や名古屋城と違って城内にエレベーターがないことですね。まあお年寄り、体の不自由な人にはうれしいかもしれませんが、私としては城の中にあんなものがあったら違和感があるいうか興醒めしてしまいますね。歴史ロマンもあったもんじゃない。そこは清正も喜んでいると思いますよ(たぶん)。

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
熊本城おもてなし隊

 

ブログ(史跡/百名城・続百名城2)
熊本といったら、やっぱり馬刺しですね。これを食べずに帰れるものか!