お城EXPO in滋賀(長浜市)に行ってきました。
令和3年10月9日滋賀県長浜市にお城EXPOに家族と行ってきました。お城EXPO
は関東でしかやっていないと思っていたので、珍しいと思い行きたいなと思いました。
復元長浜城
耐震工事のため中には入れませんでした。ここは元々今浜といい、京極氏(佐々木)が治めていましたが、姉川の戦いに功があった木下藤吉郎が織田信長により与えられ初めて一国一城の主となった時、長浜と改められました。
豊臣秀吉像
全国統一に向け初めて手に入れた出世城です。
滋賀県北部琵琶湖畔に建っています。美濃に抜ける東海道と越前若狭に抜ける北陸道のぶつかる要衝でした。
船による近江の運搬に関わる港もあり大いに賑わったことでしょう。
長浜城の説明板
長浜文化芸術会館でお城EXPO in滋賀が開催されました。
武将隊の皆さんも来られていました。
墨絵師御歌頭さんによる作品。明智光秀と熙子さんかな。
御歌頭さんによる墨絵実演会もあったようですが、都合が合わず見れませんでした。残念。
ひこにゃんもゲスト出演していたようです。他にも武将隊による演武もあったようです。
滋賀県の御城印だけ売っていると思ったら、全国のものや武将のものもあったので、これまで訪れて持っていなかったものを今回は戦国魂(せんごくたま)というお店でまとめて購入しました。他の店舗も御城印やグッズを出品していました。
本浜町に移動し、お昼ご飯を食べた後、観光地をうろうろしているとおいしそうなものがたくさんありました。
黒壁AMISUさんで日本酒とビールを買いました。
しぜん堂さんでパフェを食べて帰りました。とてもおいしかったです。
お腹も満足して、楽しいドライブでした。
岸和田城 大阪府岸和田市 続100名城
令和3年8月12日に息子達と高速を使って行ってきました。京都から1時間半くらいかかりました。今日から5日間のお盆休みになりますが、この期間あいにくの空模様のようです。実際大雨でしたが、これにひるんでいてはあっという間に休みが終わりそうなので強行しました。
この状況の城観光はさすがに密になることはないとも判断しました。
岸和田城は戦国時代末期には当時泉州地域を治めていた松浦氏の居城となっていました。織田信長の家臣津田信張、蜂屋頼隆がしばらく在城した後、羽柴秀吉は家臣中村一氏を岸和田城主とし、紀州の根来寺や雑賀衆への押さえとしました。一氏は紀州勢の大軍を相手に城を守り抜き、天正13年秀吉は岸和田城を拠点として根来寺勢力を一掃しました。その後、秀吉の叔父の小出秀政が入り、城下町と城郭の整備がなされました。豊臣氏滅亡後、松平氏二代を経て、寛永17年摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めました。
文政10年落雷によって天守閣は焼失し、以後長らく再建されませんでしたが、昭和29年鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建され、また昭和44年に城壁と櫓が再建されました。
二の丸付近から見る本丸
櫓門近くの堀
岸和田城庭園(八陣の庭)
昭和28年に重森三玲氏により諸葛孔明の八陣法をイメージして設計された。
再建天守閣
岡部家三代藩主岡部長泰所用の甲冑
初代藩主岡部宣勝像
天守閣最上階から見る岸和田市内の様子
多聞櫓、隅櫓
天守閣の中で続100名城スタンプや御城印もありました。岸和田の食で有名なたこや、町の伝承で語り継がれている岸和田を守ったたこ地蔵さんを象っています。子供達も一緒に楽しめて良かったです。
天気が晴れて、時間に余裕があったらもっと城下町などゆっくり見たかったです。
黒井城 兵庫県丹波市 続100名城
令和3年5月9日に長男とドライブしていってきました。兵庫県丹波市にある黒井城址です。京都から高速道路を使って1時間半くらいでした。
到着したらちょうど昼時だったのでまず、道の駅丹波おばあちゃんの里で昼食にすることにしました。丹波といえば黒豆が有名なので黒豆うどんを食べました。麺に黒豆が練り込んであるのですが美味しかったです。
ところが目的の一つにしていた黒井城の御城印が今年の2月で全販売所での売り切れということで断念しました。残念(≧∀≦)
しかし、続100名城のスタンプは春日住民センターというところで手に入れることができました。
そうして、昼過ぎから黒井城を登山するとこにしました。正直どのくらいの山城が調べずに行ったので不安でしたが長男は昔からよく山城に連れて行っているのでまあ大丈夫だろうと思ってました。黒井小学校を過ぎたあたりの小さな駐車場に停めて、登城口に急峻なコースと緩やかなコース2通りあったので当然緩やかなコースを選びました。
ところがまあまあ傾斜が厳しいところや滑りやすいところがあり、自分もしんどく、息子もだいぶきつそうでしたが何とか45分ほどで登頂できました。
山頂部には城の主郭跡が残ります。
黒井城は南北朝時代の建武2年(1335)春日部荘を領した赤松筑前守貞範が山頂に砦を築いたのが始まりと言われています。
その後約200年間数代にわたって城主の変遷がありましたが、戦国動乱の最中の天文23年(1554)荻野悪右衛門(赤井直正)が城主となり、その勢力拡大とともに大改修されたのが現在の黒井城です。直正は甲斐武田氏の甲州流軍学書「甲陽軍鑑」の名高き大将衆13人に数えられ、近隣諸豪から丹波の赤鬼と呼ばれ恐れられていました。
勢力を伸ばしてきた織田信長に一度は服命しますが、山名氏との関係悪化から信長と敵対することになります。明智光秀による第一次丹波平定戦では八上城の波多野秀治の裏切りにより、直正は光秀軍を撃退できました。しかし直正は天正6年(1578)に病気のため亡くなります。
本丸跡
明智光秀は直正の死を機に、第二次丹波平定戦を開始し、八上城の波多野氏、ついで黒井城の赤井氏を滅ぼしてついに丹波を平定したのです。
本丸跡から見る黒井の町並
興禅寺
黒井城の麓にあります。城下館跡で平時、城主はふもとの館で政務を行った。水をたたえた7間濠、高石垣と白い練り塀を巡らせ堅固な防御施設を備えている。
興禅寺
丹波攻めの後光秀の重臣斎藤利三が黒井城主となり、娘のお福(のちの徳川三代将軍家光の乳母、春日局)がここで生まれ、3歳まで育ったとされる。春日というのはこの辺の地名であることは初めて知りました。
JR黒井駅の前には斎藤お福さんの銅像がありました。この辺りでも遊んでいたんでしょうか?
道の駅「丹波おばあちゃんの里」で明智光秀と赤井直正ゆかりの地ガイドブックを購入しました。1100円。写真入りで史跡を詳しく紹介してあり大変分かりやすいです。
黒井城の周辺には赤井氏側の多くの支城があり、光秀が丹波を平定するのに大変苦労したのが分かります。
勝竜寺城 京都府長岡京市
遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。気付けば1月はネタがなく1つもブログを上げていませんでした。
今日は令和3年2月11日は建国記念日で祝日ということもあり、長男と勝竜寺城に行ってきました。
勝竜寺城は元亀2(1571)年に織田信長の名を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を当時最先端の城郭に大きく作り替えたものです。現在は復元城で、城内にいくらか当時の石垣などの遺構を見ることができます。
京都盆地の南西に位置し、西国街道と久我畷の結節点を抑え、淀川水系にもほど近い交通の要衝に立地します。京都防衛の要でした。
土を切り盛りして造ったそれまでの中世城館とは一線を画し、瓦葺き、石垣、天主といったその後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられています。信長の安土城築城より5年早く近世城郭の先駆けとも言えるのです。連歌会や能、囲碁、乱舞が催されたり、茶陶の出土が確認されており文化的な交流の場であったことも分かっています。
寛永10(1633)年に廃城になりましたが、昭和63年の発掘調査で数々の遺構遺物が発見されました。平成4年に現在の勝竜寺城公園としてオープンしました。
天主を模した管理棟2階には歴史ミュージアムがあります。今回は麒麟がくるにちなんだ催しが行われていました。
細川と明智の旗が靡いています。
堀には鯉がたくさん。餌はやらないようにとのこと。
勝竜寺城の縄張り 家臣の屋敷に囲まれているのが分かります。
南正門
細川忠興とガラシャ像
天正6(1578)年信長の意向による、藤孝の嫡子忠興と明智光秀の娘玉(ガラシャ)の婚礼がこの城で執り行われました。
細川ガラシャにちなんだガラシャ祭りが毎年11月の第2日曜に行われているようです。
城内は庭園のように整備されています。桜が植えられており春には見頃になると思われます。
北門の石垣
下側半分は当時のものです。通路を直角に折れ曲げた枡形虎口を自然石を積み上げた野面積みで構築しており、石仏、五輪塔、板碑などの石造物を転用し、組み込んだ様子がよくわかります。
天正10(1582)年に明智光秀は本能寺の変を起こした後、山崎にて羽柴秀吉と戦いました。光秀は本陣を勝竜寺城近くの恵解山古墳(えげのやまこふん)辺りに置いたと考えられます。しかし、まさかの細川藤孝の裏切りなど態勢を整えられず、多勢に無勢の形となり敗退します。その後光秀はここ勝竜寺城に逃げ込み夜の内に北門から抜け出し、近江坂本城を目指しますが、途中山科の小栗栖付近で農民の落武者狩りに合い、敢えなく亡くなるというのが定説です。
しかし、命からがら脱出し生き延びて徳川家康を支える僧天海になったとか、岐阜の明智伝来の地に戻り姓を変え関ヶ原の戦いに臨んだとかの伝承もあります。去年の大河ドラマ「麒麟がくる」は長谷川博己さんが光秀を演じて、これまでの光秀につきまとう信長に対する裏切り者、三日天下といったイメージを全く違うものにしてくれたと思います。歴史は勝者が作るものというように敗者に対して歪められたイメージがあるのも事実です。今回の麒麟がくるではこういった光秀像があったのかもしれないという可能性を見せてくれたのだと思います。
JR長岡京駅の観光情報センターで御城印を購入できました。
坂本城 滋賀県大津市
令和2年12月29日本年度最後の城攻めです。仕事納めを終わり、家の大掃除も後はエアコンの掃除だけとなったので息子たちと行ってきました。
前からここ行ってみたいと思っていたのですが、現在大河ドラマ「麒麟がくる」でちょうど坂本城が出ているということで。
明智光秀像
以前ブログで取り上げた亀山城の光秀に比べて、ずんぐりむっくりで不細工です。
この近くに光秀についての歌「光秀(おとこ)の意地」の碑とボタンを押すと鳥羽一郎さんが歌うという装置があり、なんともしぶかったです。
元亀2(1571)年織田信長の命により、琵琶湖の水運による交易の確保と比叡山延暦寺に対する抑えとして光秀が築城。初めての瓦葺き天主を待つ水城。天正14(1587)年廃城となり大津城へ移転。
水が引いている時はもっと石垣が見えるようなんですが、今日はこのような状態
子供達は湖の浜辺で遊んで楽しそうでした。寒かったけど、子供達のリクエストで坂本城址公園でお昼を食べました。
明智塚
坂本城で戦死した将兵を祀る。光秀の墓所とも。光秀の刀である郷義弘埋葬伝承。
東南寺
坂本城の跡地。今津堂。
西教寺
明智光秀や妻を含む一族の墓がある菩提寺。坂本城から城門、陣鐘、陣屋を移築。天台真盛宗総本山。
光秀直筆寄進状(西教寺資料館)
元亀4年今堅田の戦いで戦死した部下の霊を弔うため寄進した供養米の寄進状である。18人の討ち死にした者の中には中間という身分の低い者もおり、身分に関係なく分け隔てなく供養米を奉納されているのが分かる。光秀の部下を思う温情あふれる人柄が垣間見える貴重な資料である。
明智秀満の鞍、鐙(西教寺資料館)
名高い湖水渡りの際に使用したと伝わる。
秀満は山崎の戦いの時、安土城から光秀の救援に向かいましたが、光秀の死を知り、急遽行き先を坂本城に変更しましたが秀吉の兵に囲まれました。そこで馬のまま琵琶湖に乗り入れました。秀吉の兵達はいずれ溺れるだろうと笑っていましたが、琵琶湖の遠浅を熟知していた秀満は簡単に渡りきり唐崎に上陸しました。その後坂本城で防戦しますが、かなわず城に火を放ち一族とともに自刃しました。
坂本城の想像全景模型
宣教師ルイス・フロイスは安土城と共に近江を代表する美しい水城であったと伝えています。
光秀の筆書図
麒麟に乗ってかっこいいですねー
この絵、後で知ったんですが、墨絵師の御歌頭さんという有名な方が書かれたものでした。畳4畳程ある大きなものです。
坂本城の御城印を欲しかったのですが、寺内の売店が閉まっていたため、西教寺の御朱印を代わりに購入しました。もちろん、光秀さんの家紋、水色桔梗入りです。
後日坂本城趾の近くにあるKKRびわこホテルさんにて御城印を購入できました。
今年も皆さん一年お疲れ様でした。来年こそはコロナが落ち着いて、日本の経済も日常の生活もいい方向に向かうことを願います。
金ヶ崎城 福井県敦賀市
令和2年9月21日福井県の小浜港に家族で釣りに行った帰りに、敦賀市まで行き金ヶ崎城跡へ行ってきました。
ここは100名城、続100名城ではないのですが、歴史的エピソードとしてなぜ選ばれなかったのか不思議なくらい有名なところです。
ここは歴史的に大きく分けると2度登場します。1度目は延元元年(1336年)10月南朝側の後醍醐天皇は比叡山を足利尊氏に囲まれて降伏し囚われの身となります。その時一緒に戦っていた南朝武将新田義貞は後醍醐の御子、尊良親王と恒良親王を預けられこの越前へと落ちてきました。気比氏治に迎えられその居城金ヶ崎城に入った一行でしたが、足利軍の追討を受け、総大将高師泰60000余をもって陸海より包囲され、援軍の瓜生保らも功を奏せず延元2年3月に落城しました。尊良親王、新田義顕は自刃、恒良親王は捕縛された。義貞は何とか逃れ再起を図ることになります。
2度目の登場は戦国時代末期、朝倉義景と織田信長との対立の時、義景は金ヶ崎などに城を築き来襲に備えました。元亀元年(1570年)4月信長は天筒、金ヶ崎両城を攻略し朝倉景恒を降伏せしめた。そして木の芽峠を越え、越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏裏切りの報がもたらされた。信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却。この時金ヶ崎城に残り殿を務め、この難関を救ったのが木下藤吉郎で、その活躍で無事帰京することができた。
金ヶ崎宮
祭神は尊良親王と恒良親王です。明治に入り官幣中社とされました。またまた出ました南朝好きの明治政府
絹掛神社
南北朝時代の戦いで亡くなった南朝側の将士を祀っています。
金ヶ崎城の石垣
尊良親王自刃の想定地
金ヶ崎古戦場碑
この辺りが本丸でした。
月見御殿から見える越前海岸の風景
両側が堀切で土橋であったことが想像できます。
かなり急峻な堀切
二の木戸、三の木戸付近にあり南北朝時代、激戦が繰り広げられたと言い伝えられている。
金ヶ崎宮にて御城印も販売されています。
浅井長政に嫁いだ、信長の妹お市から浅井朝倉に挟まれているという危機を知らせるため両側を紐で結んだ袋に小豆を入れ、信長に届けたというエピソードから、このような難関突破開運招福お守りが売ってましたので買ってしまいました。
津城跡 三重県津市 続100名城
令和2年8月12日松阪を出た後、津城へ向かいました。下道で30分くらいの距離でした。
車の中にいても日差しがきついので日焼けでヒリヒリ痒みが出てきました。やはり日焼け止めはこの時期必要ですね。
さすがに県庁所在地なので付近はお役所が多いです。
織田信長の伊勢国侵攻に伴い地元の雄、長野氏に養子入りした弟、信包は定湿地であった安濃川のデルタ地帯に城を築きます。天正8年に完成したこの城が津城のルーツとなりました。文禄3年信包が秀吉に改易され、新たに富田氏が城主となります。慶長13年徳川家康の命により、富田氏に替わり藤堂高虎が伊代国今治から伊勢伊賀領主として入府します。築城の名手高虎は大坂包囲網作りのため各地の天下普請に多忙を極めましたが、慶長16年になり津城の大改修を行いました。来るべき太平の世を見据えた新たな城下町の建設を構想したものでした。
大手門櫓
藤堂高虎像
最大100メートルにもおよぶ幅の広い内堀
続100名城スタンプは城内の高山神社にありますが、御城印はJR津駅の観光案内所にて販売しています。
松阪城 三重県松阪市 100名城
令和2年8月11日家族で久々に三重県に城攻め行ってきました。
京都から高速道路を使って1時間40分くらいでした。すごい猛暑でした。
織田信長亡き後、羽柴秀吉に仕え天正12年南伊勢12万石の所領を与えられた蒲生氏郷は、この地に城を築き、蒲生家に吉祥をもたらす「松」の字と秀吉の本拠地大坂の「坂」の字を併せて「松坂」と名付けました。氏郷は参宮街道のルートを変更し松ヶ島から商人や職人、神社仏閣を新しい城の周辺に移すとともに、楽市楽座を行って氏郷の出身地である近江日野や伊勢大湊の商人を受け入れるという、今までにない新しい城と城下町を作ろうとしました。これが後に江戸で活躍した松坂商人の始まりとなったのです。明治の財閥となる三井家もこの地から生まれました。天正18年氏郷は会津へと国替えとなり、その後服部氏、古田氏が領主となりました。元和5年徳川頼宣がら和歌山藩主となった時、和歌山藩領となり、そのまま明治維新を迎えました。明治22年に松坂から松阪へと表記が変更されました。
二の丸入り口近くの石垣
中御門付近の虎口
本居宣長記念館 今日はお休みでした。
松阪駅前観光案内所前の松阪牛さんもコロナ禍でマスクしてます。
「まるよし」さんで松阪牛を食べて帰りました。
高速道路のサービスエリアで買ったお土産
御城印は松阪駅前の観光案内所で販売しています。
安土城 滋賀県近江八幡市 100名城
令和2年7月5日に安土城に御城印をいただきに行きました。息子の野球イベントのあいまに妻と次男と行ってきました。湿度の高い蒸し暑い日でした。連れの二人は大手の階段を見ただけで怖気付いていたので僕一人で登りました。入り口で入場料払って、御城印を買いました。
織田信長は天下統一を目標に天正4年重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え標高199mの安土山に築城させた平山城。天主完成から3年目の天正10年明智光秀の謀反により信長は本能寺で自刃、安土城は明智勢に攻められ天主などを焼失し、一夜のうちに落城した。
羽柴秀吉邸跡
前田利家邸跡
紫陽花が綺麗に咲いていました。
頂上部の縄張り図です。
黒金門の虎口です。
織田信長公本廟です。
本丸跡です。ここにあった建物は内裏清涼殿に似ていたということから信長はここに天皇を住まわせようとしたとも言われている。
ここに5層7階建ての天主が建っていたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記しています。
ハ見寺
ハ見寺さんが書いてくれている安土城の御城印です。天下布武の文字がかっこいいです。
大和郡山城 奈良県 続100名城
令和2年3月8日
コロナの流行で皆さんお出かけ自粛モードですかね。
嫁から外出の許可が出たので、一人で奈良県まで雨の中ドライブしてきました。
僕、雨のドライブて好きなんですよねー
京都から京奈和自動車道て高速道路使って1時間くらいでした。
1570年代筒井順慶が織田信長の援軍を得、松永久秀を倒した後に入城し、本格的な普請が行われました。今話題の明智光秀も普請に関わっていたようです。
その後、豊臣秀吉の弟、秀長が、大和、和泉、紀伊100万石の領主として入部した時、今の形にされたと言われています。大和に良質の岩が無かったため、墓石や地蔵なんかも使われました。
その後、関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て様々に、城主が代わり、徳川時代に入ってわ譜代の大名が次々と入りました。1724年柳沢吉里が入部して以降、安定し、これが明治維新まで続きました。柳沢吉里の父は柳沢吉保と言い、将軍徳川綱吉の側用人まで上り詰めた、やり手の政治家です。あの元禄時代の赤穂浪士が吉良邸に主君の仇討ちを果たしたという時代です。
本丸跡にある柳沢吉保を祀る柳沢神社 出世人は死してなお神として祀られんですね。
近年石垣補修された天守台跡
天守台から金剛山を臨む風景
天守台から三輪山を臨む風景
追手向櫓
梅の催し物があってました 春には桜も満開になるようです。
柳沢文庫
城の全体図です。
今回初めて城御朱印も購入しました。