比叡山延暦寺と大塔宮護良親王

 

令和元年9月29日母が私の長男の運動会を見に福岡からやってきたので、家族とともに比叡山延暦寺に連れていきました。

 

ここは最澄さんが平安時代に建てた天台宗の総本山です。当時、中国から取り入れた仏教を学ぶ者が集まる大学のようなものでした。ここで学んで独自の宗派を広めた者を多く輩出しています。
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大講堂 この近くにある梵鐘は誰でもつくことができます。願いが叶うらしいです
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現在根本中堂は工事中のため、入場券を撮りました。
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これです。これこれ。ついに見つけました!
この碑を見たくて、これまでも数回延暦寺は来たことあるのですが、どこにあるのか分からなくて見つけれませんでした。
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大塔宮護良親王とは南北朝時代の後醍醐天皇の長男です。天台座主や征夷大将軍も勤めました。しかし、鎌倉幕府が倒れた後、次の実力者であった足利尊氏と対立し、ついには敗れ、捕縛され、監禁先の鎌倉で殺害されました。悲劇の王子でありました。

 

武闘派の親王であったようで、ここで僧兵の訓練など行っていたようです。
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大黒堂 出世のご利益があるようです。この建物の左側に大塔宮の碑がありました。
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延暦寺は比叡山全域渡っており全てを見るのは時間がかかりますので車で行くことをお勧めします。
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今回は東塔地域だけ行きました。
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延暦寺会館の一階の喫茶店で梵字ラテを飲みました。
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延暦寺会館の二階ではお食事もできます。今回は湯葉丼を食べました。わさび醤油が効いてとても美味しかったです。写真を撮るのを忘れていたのでパンフレットです。一階カフェやここらからは琵琶湖の雄大な景色を眺めることができます。

 

母も満足してくれたようで良かったです。

北野天満宮 京都市上京区

平成28年2月11日今日は初めて北野天満宮に行ってきました。あの学問の神様、菅原道真公を祀ったところです。実家が福岡だから大宰府天満宮はよく行っていたのですが、本家についにやってきました。まずはお参りして長男に水泳や勉学が上達するようにと技芸上達のお守りを購入しました。そして2月上旬から公開されている梅苑へと入りました。最近少し寒くまだ4、5割りくらいの咲きでしたが、それでもきれいな梅の花もありました。
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最近妻がカメラにはまってまして、上手に撮れてると思います。
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この梅が菅公を追いかけて大宰府まで飛んでいったと伝えられています。
この後お茶屋で梅こぶ茶、甘酒、酒饅頭をいただきました。風情があって良かったです。
この後は僕が一番の目当てにしていた。宝刀展に次男と行ってきました。
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たくさんの刀が展示してあったんですが、特に見たかったのが、これ
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源氏重代の宝刀髭切ひげきり(鬼切丸)です。足利尊氏好きの僕としてはいつも小説とかテレビで見るものだったので是非とも自分の目でみたいと思ってました。まだ実在したんですね!!こんなところに奉納してあるとは知らなかったので、京都に住んでて良かったな〜と思いました。源満仲が作り、罪人を切った時に一緒に髭まで切れたことから髭切と名付けられた。その後、源頼光の四天王の一人渡辺綱が一条戻り橋で鬼を切ったことから鬼切丸とも呼ばれる。その後、八幡太郎源義家、鎌倉幕府を開く源頼朝、室町幕府を開く足利尊氏の手に渡った。そして足利一族の斯波しば氏、斯波一族の最上氏に伝わった後に北野天満宮に奉納されたということです。オンラインゲームの刀剣乱舞のイベントもやっていたせいか若い女性客が多かったです。

神護寺 京都府京都市右京区

平成27年8月14日やっとお盆休みに入ったので、家族と嫁のお母さんとで京都市右京区にある神護寺に行ってきました。この寺は市内からかなり離れた山にあります。着いてみるとその麓には川床料理を食べられるお店や老舗の旅館があり賑わってました。
神護寺は平安京造営の最高責任者であった和気清麻呂(わけのきよまろ)が作りましまた。

 

楼門まで250段の階段がありました。次男を抱いて登りました。疲れた〜長男は一人で登り切りました。えらい
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鬼瓦さんがお出迎えしてくれました。
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明王堂
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鐘楼
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五大堂
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毘沙門堂
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大師堂

 

長男とかわらけ投げをしました。おもしろかった。
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かわらけ投げ場の向こう側はこんな渓谷の風景が広がっています。この近くのお茶屋さんで休憩して冷やしあめ湯を飲みました。生姜がきいててめっちゃうまかった。

 

その後山を降りて、麓のお店で昼御飯を食べたあと近くの清滝川に降りて川遊びをしました。僕と嫁は必死に沢蟹をさがしました。なかなかいないから水際の石を裏返しては探しやっと見つけました。
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もう何か宝探しみたいです。卵つきのやつや子蟹を連れてるやつなんかもいました。

 

神護寺の金堂では国宝の薬師如来などが拝観できます。そして僕のお目当てとするものもありました。
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これ皆さん一度は見たことありますよね!?そう、小中の教科書では源頼朝と言われている像ですね。実はこれレプリカなのですが、元々はここにあったものなのです。いわゆる神護寺三像の一つです。現在本物は京都市博物館にあるようです。しかしこの像最近の研究では頼朝ではなく、足利尊氏の弟、直義(ただよし)であると言われています。そしてここからは画像引用してますが
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これが平重盛ではなく、足利尊氏
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これが藤原光能ではなく足利義詮(足利尊氏の長男)
この3つが元々は神護寺にあったとのこと。
最近の研究では、足利直義が、尊氏と直義の不仲を心配しながら亡くなった母清子の菩提を弔うために最初に尊氏、直義二像を神護寺に奉納し、尊氏が長男、義詮に将軍職を譲ってから、新たに義詮像を奉納したのではないかという論が出ている。

 

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そしてこれが足利尊氏ではなくその執事の高師直とのこと。
真相は未だ研究中ですが、今ごろそんなこと言われたってイメージ狂っちゃいますよね。
今日は家族も満足できて良かったです。

 

先日京都市博物館の中世宝物展を見てきて本物の神護寺三像を見てきました。これは一生に一度は見た方がいいです。想像よりもサイズが大きく感じました。

吉野南宮 奈良県吉野郡吉野町

平成26年11月16日家族でドライブしてきました。久しぶりの史跡散策です。今回は太平記関連の小説を読んで前から行きたいと思っていたとこです。京都からは2〜3時間かかりました。やっぱり遠かった。でもそれだけに得るものも多かったです。桜の時期は観光客がすごいことになるようなのであえて、この時期に行きました。
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吉野神宮です。ここは後醍醐天皇を祭神として明治政府によって建てられた所です。
このような南朝に関わる人を祭った官幣大社が全国に15ヵ所あります。南北朝時代終了以降、天皇は北朝を称しているはずなのに明治政府はなぜ南朝を崇めているのかは大きな謎ですね。
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紅葉がきれいでした。
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次は如意輪寺に来ました。ここは後醍醐天皇の御陵がありました。厳粛に参ってきました。さすがにおそれ多く写真は撮っていません。
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宝物殿がありました。この扉の右上に文字が書いてあります。楠木正成の息子、楠木正行(まさつら)が闘いに赴く前に残した時世の句が書かれています。このあと今の大阪にある四條畷というところで足利尊氏配下の高師直と闘い討ち死にしました。他にも正行の鎧兜や短刀、後醍醐天皇の品々も展示してありました。
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お腹がすいたので参道ぞいの豆富茶屋さんにて休憩しました。ここは大豆を使ったご飯を出しているお店で僕は豆腐ハンバーグ定食を頼みました。ボリューム満点でおいしかったです。
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次は金峯山寺(きんぷせんじ)に行きました。吉野の参道はこのお寺をメインとしているようでした。役小角(えんのおずぬ)という人が開いたお寺で修験道の大本山だそうです。ちょうど僕らが行った時も多くの修験者が集まってごま焚きをしていました。今回たまたま本尊である金剛蔵王大権現像が開帳してあり見ることができました。とても大きな青い仏像で大迫力でした。
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本堂の前には後醍醐天皇の息子、大塔宮の陣地跡がありました。向こうに見える炎がごま焚きです。大塔宮は尊氏に捕らえられて、鎌倉に送られて、尊氏の弟の 直義に預けられますが、結局殺されてしまいます。
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この寺の敷地内に南朝妙法殿がありました。後醍醐天皇崩御後も機能していた南朝本拠地です。高師直の攻撃を受けて焼失しましたが再建されています。
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最後に吉水神社に行きました。ここは後醍醐天皇が皇居としたとこです。
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後醍醐天皇玉座です。ここに座って北朝との闘いの作戦を北畠親房らと練っていたんでしょうね。日本各地の南朝勢力に自分の息子たちを派遣したりしてます。他にも源義経、弁慶占拠の間もありました。兄の頼朝に追われた義経はここで静御前と別れて、山伏姿に変装して落ち延びていきます。義経の鎧、佐藤忠信の兜、弁慶の篭手なども展示してありました。
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北厥門(ほっけつもん)。北の京都の方角を向いて建てられた門です。ここから後醍醐天皇はいつかは再び京に返り咲く日を夢見ていたと言われています。その夢かなわずここで崩御されるのですが、その後も南朝遺臣たちにより戦いは数年続きます。南朝は衰退し、室町幕府の足利義満の代に南北一統がなります。
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この寺に書いてあった石碑ですが、『明治維新は南朝の確立』最初見たとき、えっ?と思わず驚いてしまいました。何を根拠に史実を覆すようなことを書いてるんだろうと…今上天皇て北朝のはずだよね。ということは明治天皇から南朝の天皇に入れ換えられたてことなのか?まあそうだとしたら、明治政府が全国に多くの南朝遺臣を祭った官幣大社をつくったこともつじつまが合うのだが。大きな謎を残して吉野の旅は終わったのであった。

 

東北に派遣された南朝家臣、北畠顕家の話です。
武王の門〈上〉 (新潮文庫)/新潮社

 

九州に派遣された後醍醐の息子、征西将軍宮懐良(かねなが)親王と九州の南朝方、菊池武光の話です。新田義貞(上)/新潮社

 

尊氏の因縁のライバルといえばこの人ですね。

千早城跡  100名城 大阪府千早赤坂村

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楠公誕生地

 

明治時代に視察に来た大久保利通により記念碑を建てるようしじがあったという

 

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千早城址二の丸

 

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本丸跡には千早神社が建つ

 

平成26年4月7日4歳の長男と高速道路を使って行ってきました。吉川英治氏の「私本太平記」を読んで1度見てみたかったとこです。100名城の1つでもあります。大阪の富田林市の隣にある千早赤坂村にというとこです。京都から1時間50分くらいかな。まずはふもとの道の駅辺りに楠木正成公生誕地の碑があったので、パシャリと最近買った一眼レフカメラで撮りました。それから金剛山にある千早城へと向かいました。休憩所「まつまさ」さんから歩いて20分。結構急な坂道でしたが息子がんばって歩いてくれました。たくましくなったな〜ここは元弘3年/正慶2年(1333年)2月に楠木正成が幕府の大軍を迎えうち、ついには撃退した所です。正成は100倍以上の敵を相手に戦いました。人員、物資に劣る正成は各地でゲリラ戦を展開し、城の上から丸太や岩を落とし、油や火、篭城する人々の糞尿まで使って幕府軍を悩ませました。その間に京都では足利尊氏が六波羅探題を撃破し、新田義貞が鎌倉を陥落させました。その後尊氏と後醍醐天皇が争う南北朝時代に入ると正成は南朝方につきますが、湊川の戦いで尊氏に敗れて自刃します。近くには他にも下赤坂城、上赤坂城、国見山城、猫路山城もありました。まつまささんでお昼ご飯を食べ、しいたけと豆腐のひねりもちを買って帰りました。

 

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楠木正成公像

 

以前東京に行ったとき撮りました。江戸城皇居正門広場前の楠公休憩所あたりです。やっとここまでたどり着きました。お疲れであったのーと迎えてくれている気がします。それにしてもすごい日照りだしだいぶ歩いたのでバテバテです。この人誰だか皆さんご存知ですか?何をした人かご存知ですか?多くの方は知らないのでは。鎌倉時代に後醍醐天皇の倒幕運動に協力した今の大阪、河内の土豪です。しかしその人が何でここにいるのか?ちょっと難しい話になりますが、鎌倉幕府が倒れた後、倒幕の主役であり天皇専制政治を復活させたい後醍醐とその後醍醐から離反して武士、農民中心の世の中を作りたい足利尊氏とに大きくわかれました。後醍醐天皇側を南朝、足利尊氏側を北朝と呼びました。後醍醐の統治に納得の行かない武士が次々と北朝に寝返る間、楠木正成は一貫して南朝側に着きました。長く続いた南北朝の争乱も南朝の衰退によって収束し、その後は北朝の天皇でここまできたはずでした。そう現在も。(・・;)?(・・;)?(・・;)?北朝の現天皇が南朝の守り神である楠木正成の像を皇居近くにおく?これは暗に、いやハッキリと現天皇が南朝て言ってるようなもんですよね。北朝だったら足利尊氏の像を置くべきだし。以前奈良県の吉野という南朝の本拠地に遊びに行ったときに「明治維新は南朝の確立」という謎の言葉が書いてあるのにも納得いきます。そもそも薩摩、長州、土佐、肥前が中心となって行った明治維新自体が南朝復興を目的としたとも言われている。最初は僕が別々に好きだった南北朝時代と明治維新がこんなとこでリンクするとは夢にも思いませんでした。

清滝寺、 徳源院 勝楽寺 滋賀県米原市

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平成24年11月29日前から行きたいと思っていたとこに行けました。北方謙三氏の「道誉なり」を読んでずっと行きたいと思っていましたが、やっと嫁の了解を得て行けました。滋賀県の米原市というもう隣は岐阜県の関が原というようなところにあります。ここは南北朝時代に足利尊氏に協力して、室町幕府でも重職に付いた佐々木道誉の佐々木氏(京極氏)の菩提寺です。京極家22代高豊が整備をしました。一番左は道誉が植えた道誉桜と言われています。季節的に枯れ枯れだったのですが、その代わり紅葉がきれいでした。裏の山には柏原城址があったようです。

 

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車でちょっと移動して、犬上郡甲良町の勝楽寺に行きました。ここはまさに道誉が建てたお寺です。道誉のお墓にお参りしてきました。この寺に続く参道は、戦・政治だけでな華道、茶道、歌にもその才能を発揮した道誉らしくバサラ通りと名付けられていました。入ってすぐ左の道誉記念堂の中には道誉の坐像が安置されてありました。もっと近くで見たかったな〜。この寺の裏山も勝楽寺城址があるようです。佐々木氏の本拠地はここからちょっと北に行った息吹山の中腹にある太平寺城、上平寺城ということなのですが、中世の城にありがちな山城でさすがに妻子を連れて行くのは難ありなので止めときました。帰りは、近くの彦根城でリアル彦ニャンに会ってきて、彦根市内のクラブハリエで人気のバームクーヘンを買って帰りました。いや〜充実した休みだったな〜。

石清水八幡宮 京都府八幡市

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2012年1月8日家族で行ってきました。今日は新年1週目の日曜日ということもあり、初詣客で賑わっていました。縁日も出ており、おいしそうなにおいが僕らを誘っていました。京都の八幡市という大阪との境にあります。男山の山頂に本殿があり、麓からはケーブルカーもしくは徒歩で登ることができます。子供ずれということもあり、行きはケーブルカーに乗りました。帰りは息子を肩車して降りてきました。前回行ったときは本殿が修築工事中で見れませんでしたが今日はきれいな本殿を拝むことが出来ました。
源氏の氏神とされている神社で、源頼義(前九年の役で活躍)の嫡男義家(後三年の役で活躍)はここで元服し「八幡太郎」と名乗り、その5代目頼朝や足利将軍家も厚く敬い、社領等を寄進しました。
太平記にも何度か出てきます。京都を攻める軍が陣取るところとして描かれています。確かに山頂からは北に見える京都が一望できるという利点があるので攻める上での戦略が立てやすかったのだと思います。
京都は3方を山に囲まれておるため、糧道を遮断すればすぐに干上がるので古来から攻めやすく守りにくいと言われていました。足利尊氏も南朝との戦いで京都を攻められるたびに何度も明け渡して一旦は外に逃げています。

桜井の駅址 大阪府三島郡島本町

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楠公父子別れの像

 

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手水鉢(ちょうずばち) 屋形のかえる股に正成所要の兜の鍬形を思わせる彫刻がある。

 

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旗立松
旗掛松、子別れ松とも呼んでいます。 西国街道の端にある、枝を広げた老松のもとに駒を止め、楠木父子が訣別をしたと伝えられています。

 

2010年11月13日に嫁の実家に向かう途中に行ってきました。名神自動車道を高槻でおりてしまったので、細い道を探し探し行ったので、すごい時間がかかってしまいました。これならば、いつも通り大山崎で降りたほうがよっぽど近かったです。JR島本駅のまん前にありました。駅のロータリーに車を停めるところがあったので幸いでした。前ページの楠木父子像は明治以降に作られたもので、その他の碑も同様でした。唯一旗立松のみが当時のものと思われます。
太平記における、この辺りの話は戦前は教科書に必ず載っていたようですね。私は当然戦後生まれですから、習ったことがありません。まさにこれから天皇のために戦う、働くといった子供たちにとっては、正成、正行は良いお手本だったんでしょうね。しかし、あの世にいる正成や正行はどう思っているでしょう?そんなことのために自分たちの話を美談化されていると知ったら不本意に違いないと思います。あの時代の軍部もよく考えたものです。それにしても教育て怖いですね。国民の認識をいかようにも操作できるわけですからね。自分の子供が大きくなったら、歴史の教科書だけはチェックしたいですね。

 

桜井の別れ(さくらいのわかれ)とは、1336年(建武3年)の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅(旧字体:櫻井の驛)で交わされたという、楠木正成(まさしげ)・正行(まさつら)父子の今生の別れ。桜井の駅の別れ、桜井の訣別とも言う。
古典文学『太平記』の名場面のひとつ。天皇への忠誠を伝える美談として、戦前までは国語、修身、歴史の教科書に必ず載っていた逸話で、昔の日本人には大変有名な話だった。
「駅」(驛)とは宿場のこと。桜井の駅は現在の大阪府三島郡島本町桜井にあたる。
伝承
『太平記』によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。
建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。新田義貞(尊氏追討時は6万であった兵がこの時点では2万に減っていた)を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。

東寺 京都市南区九条町

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五重塔          足利尊氏も居住した食堂(じきどう)
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不開門は老朽化で改修工事のため今年674年ぶりに開かれた
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足利尊氏寄進の鐘

 

2010年11月7日私の息子を初めて見に来た母と行ってきました。営業の頃は、よく近くを通っていたのですごい身近な存在で、いつかは行こういつかは行こうと思いつつ行けてませんでした。今回いい機会だったので、やっと行けました。五重塔はまさに京都の象徴ですね。中に入りましたが、仏像が多くありました。一番上までいけるのかな〜と思っていましたが、残念ながら1階だけしか見れないようでした。不開門は残念ながら工事中でカバーがかかっていました。早く見てみたいですね。そりゃ後醍醐天皇の1番の頼みとした新田義貞ですから、湊川での敗戦のこともあり、名誉挽回のために必死だったでしょう。今ちょうど私本太平記をこの辺を読み、楠木正成の提案した作戦を後醍醐が採用して一旦都を尊氏に渡して、周りから糧道を断ち切って、ゲリラ的に攻撃していたら、もしかしたら湊川の敗戦もなかったし、尊氏を討ち取って建武政権がもっと長く続いたかもしれませんね。尊氏の卓越した戦略と当時の武士階級からの人望の高さはもちろんのこと、義貞の軍略のつたなさと義貞、正成の不和が尊氏に勝利をもたらしたといっても過言ではないと思われます。

 

また東寺の北には観智院という建物があり、あの宮本武蔵が一乗下り松の戦いで吉岡一派を倒したあと、身を隠すために3年ほどここにいたということでした。床の間には武蔵の書いた鷲の図や襖に描かれた竹林の図がありました。絵の薄れ具合が歴史を物語っていました。こんなとこに武蔵の書いた絵があるなんて知らなかったので何だか得した気分になりました。

 

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺。「教王護国寺」とも呼ばれる。山号は八幡山。本尊は薬師如来。
東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。

 

足利尊氏に関して
建武3年(1336年)尊氏は5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。この時本陣を東寺においた。新田義貞は圧倒的不利の中、決死の覚悟で尊氏を攻め、危機に陥った尊氏は門を閉めて、危うく難を逃れることができた。その故事により東寺の東大門を不開門(あかずのもん)と呼ぶようになった。

鎮西探題跡 愛宕神社 福岡県福岡市西区

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2010年8月10日帰省のとき一人で行ってきました。父のトヨタの新車アリオンで行ってきました。エンジン音が小さく非常に乗り心地が良かったです。黒のボディがかっこいい車です。上写真2枚は愛宕山山頂の愛宕神社、下写真は愛宕神社から見える博多湾です。福岡タワーが見えますね。ちかくにはマリナタウンがありました。福岡も私がいない間に都市高ができてずいぶんと交通の利便性がよくなりましたね。
ちなみに鎌倉幕府幕府最後の鎮西探題北条英時は足利尊氏の正妻橙子の兄、赤橋守時の兄弟であり、つまり尊氏とは義理の兄弟だったようです。
(九州に落ち延びた)尊氏といい赤橋家といい福岡とは遠からず縁があったようですね。

 

鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が九州の統括のために設置した機関である。行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。1274年(文永11年)、1281年(弘安4年)の元寇の後に設置される。1293年(永仁元年)に9代執権北条貞時のころ北条兼時・名越時家が派遣されたのが創始で、それまで設置されていた鎮西談議所は廃止される。1296年(永仁4年)の北条実政から1人体制となる。1299年(正安元年)には評定所・引付衆が設置され訴訟裁断権を持った。
探題館(探題城、姪浜城または鷲尾城とも)は筑前国早良郡の愛宕山(現在の福岡県福岡市西区愛宕)に置かれた。
1333年(元弘3年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、鎮西探題の北条英時は呼応した少弐貞経大友貞宗、南九州の島津貞久らにより攻められ滅亡する。後に室町幕府は九州統治のため、鎮西探題に倣って九州探題を設置した