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第38回桂小五郎(木戸孝允)について(13)

明治6(1873年)西郷が唱えた征韓論とはロシアの南下を危惧するのと、不平士族を憂慮して、その武力の矛先を海外へ向けることであった。しかし、内治優先と考える木戸と大久保は断固これに反対した。太政大臣三条実美は西郷らに圧迫される形で一旦納得したものの、木戸らは右大臣岩倉具視の帰りを待つべきと言う。

 

岩倉具視が帰国後、予め木戸らは話をつけておいたので、当然三条も意見を翻した。これにより、征韓論派と内治派は完全に決裂し、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助はみな辞職した。特に西郷には支持派の薩摩派閥が多く政府内の警察、軍人が次々に辞職し大混乱に陥った。この事件を明治6年政変という。中には西郷従道や大山巌のように政府に残り、その職務を全うしたものもいる。台湾出兵が決定された明治7年(1874年)5月には、これに抗議して木戸は参議を辞職している。木戸を明治政府に取り戻したい大久保利通・伊藤博文・井上馨らは、明治8年(1875年)8月、大阪会議に招待する。板垣もこれに加わり、木戸と板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、ただちに立憲政体の詔書が発布される。

 

この下野した人物達を中心に不平士族達の反乱が頻発していくようになる。また、岩倉具視が襲撃されたことにより要人警護のため警視庁が発足するのである。

 

明治9年(1876年)10月長州では前原一成が不平士族を集めて反乱を起こす。木戸はこの萩の乱を鎮圧しにいくことになる。

 

明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発すると西郷軍征討のために、有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、国軍が出動、木戸は明治天皇とともに京都へ出張する。

 

ところが、かねてから重症化していた木戸の病気が悪化した。明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日、京都の別邸で朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後に、木戸はこの世を去った享年45(満43歳没)。

 

墓所は多くの勤皇志士たちと同じく、京都霊山護国神社にある。

 

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桂小五郎といえば吉田松陰が「周旋の才」と評した。長州の思想家吉田松陰は長州藩において久坂玄瑞と高杉晋作を最も評価したといわれるが、桂は生涯の友と評したといわれる。吉田松陰は革命には三段階あり、一つ目に己のような思想家、二つ目にその思想家に影響を受けて実行に移す革命家いわゆる久坂や高杉のような者たち、そして最後に革命後を導く政治家であると。思想家と行動家は早くに死にやすい。確かに松陰、久坂もそうであった。他にも明治を待たずして多くの長州人たちが散っていった。高杉は病死であったが。この政治家となるところの才能を松陰は小五郎に見出していたのだろう。「周旋の才」とは要するに人々を導くための段取りをすることであり、大きな目標を人々に説明し、理解させ、意識づかせ、そしてリーダーとして引っ張って行くということである。小五郎は常に先を見据え、ちょっとしたことで暴発しかねない過激派の多い長州志士をうまく理解させ束ねていった。薩摩藩でいう大久保のような役割を果たした。長州藩主毛利敬親と明治天皇、明治政府との橋渡し、交渉も一手に引き受ける政治手腕も見事というほかない。明治以降の政治において長州派が大きな力を持てたのも彼なくしては果たせなかっただろう。彼亡き後は伊藤博文たち後輩にその役割が受け継がれていった。

 

桂小五郎編 完