桂小五郎潜伏先 兵庫県豊岡市出石

2018年9月17日に嫁と行ってきました。古都を思わせる情緒豊かな町並みでした。名物の出石そばがおいしかったです。司馬遼太郎氏の短編集「幕末」に「逃げの小五郎」に詳しい内容があります。

 

ブログ(史跡/幕末2)

 

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近又さん大人気のお蕎麦屋さんです。結構待ったかいがありおいしい蕎麦が食べれました。

 

蛤御門の変後、長州藩士桂小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する桂は、その元治元年8月から慶応元年(1865年)4月にかけての間、商人・廣戸家の援助を受けながら出石に潜伏する。名前を廣江孝助と変え、ある時は荒物屋主人、ある時は寺男となり、転々と名所を変えながら潜伏し続けた。その後、出石潜伏中の桂を迎えに行ったのも幾松である。

鹿児島の旅

ゴールデンウィーク帰省をして2018年5月3日、4日で家族旅行で鹿児島に行ってきました。現在、大河ドラマ「西郷どん」があってますが、これに影響された訳ではなく前から行ってみたかったのです。

 

九州新幹線ができたことで、福岡から鹿児島までがだいぶ近くなりました。1時間半でいけます。

 

鹿児島中央駅を出てすぐのところに、幕末にイギリスに密航留学した若者たちの像がありました。
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薩摩藩は横浜の生麦村で、参勤交代中の藩主一行の前を横切ったとして英国人数名を斬殺しました。そのことを、英国が賠償追求してきましたが、薩摩藩が無視したため、英国軍艦が錦江湾に入り薩英戦争が起きました。薩摩藩は大きな被害を被ったものの、台場に設置された大砲で迎撃し、何とか英国軍艦を撤退させることができました。その後、薩摩藩は外国の技術のすごさを認め、取り込まなければいけないことを考え、英国と友好関係をきづいていくことになります。そこで、この留学生の派遣に結び付くのです。

 

他にも駅前、鍛冶屋町にはいわゆる明治維新に活躍した人たちの生誕地が多くあります。
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大山巌生誕地
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村田新八生誕地
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西郷隆盛生誕地
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大久保利通像
西郷の友にしてライバル。明治の元勲。幕末は権謀術数により朝廷工作に努めた。維新後は初代内務卿となり、実質は最大の権力を持っていた。鹿児島では西郷を裏切ったということで、あまり人気はないが、最近では日本を近代化させた第一人者として再評価されている。
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鹿児島といえば、桜島ですね。今日は右側に噴煙が出ています。灰が降らずに良かったです。
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お宿は照国神社の近くのホテルにとりました。
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この照国神社は幕末の名君であり、西郷の師匠、島津斉彬公を奉ってあります。
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島津斉彬公
薩摩そして日本の近代化に勤めた名君です。軍事力、文化の強化に努めました。
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島津久光公
斉彬の異母兄弟。お由良の子。西郷とはあまり関係は良くなかった。斉彬が開明派だったのに対し旧体制を重んじる人だった。
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島津忠義公
久光の子。

 

鹿児島城(鶴丸城)に行きました。先程の照国神社から歩いていける距離です。最初は中央の一荘園領主に過ぎなかった島津氏が戦や婚姻により領地を増やしていき鹿児島全土を手中にしました。一時期は九州全土に覇をとなえますが、秀吉の九州征伐によりその勢いを止められます。
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西南戦争時の銃弾、砲弾の痕が残ります。その激しさを物語っています。征韓論に破れ、失意の内に明治政府を辞職し、故郷に戻った西郷は廃藩置県など政策、明治政府に不満を持つ過激派達を最初は抑えていましたが、ついには抑えきれなくなり、担がれて決起することになりました。密偵を放った意義を新政府に問い質すべく、東京へ向かった一行は陸路を取ります。新陸軍、熊本鎮台の籠る熊本城での包囲戦、その北側の田原坂での山縣有朋率いる新政府軍との激しい戦いに破れた西郷は九州各地で戦いますが、各地で破れ最後には故郷鹿児島に帰ってくるのです。
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西郷下野後に建てられた私学校です。鹿児島城の右となりにあります。今では病院が建っています。この生徒達が政府の武器庫を襲ったことから西南戦争の発端となります。
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西郷さん達は鹿児島に戻ってくると鹿児島城の裏にある城山に籠ります。西郷軍数百名に対し、新政府軍は数万で包囲しました。
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西郷さんが最後に指揮を執った洞窟です。ここに5日とどまったあと、負けを覚悟しここを出ますが、数十メートル降りたところで、腰と足に被弾します。
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先程の場所から、いくらか降りてきた、この木の前で立ち止まり側近の別府晋介に「しんどん、もうここらでよか」と言い、介錯してもらい亡くなったということでした。

 

西郷さんは江戸幕府という旧体制を倒し、明治政府を立ち上げるにはなくてはならない人だった。司馬遼太郎氏の翔ぶが如くに書いていたが、西郷は戊辰戦争ではもっと多くの者が死ぬはずであったと。早く終わりすぎた。日本全土を焦土とするような戦いが起き、その中から生き残ったものが新しい日本を作っていくのだと。西郷が西南戦争を起こした理由は新体制にいつまでも馴染めない旧体制指示の者を自分が責任を取って一緒に死んでやろうというものではなかったのだろうか。そうすることで新しい日本が来ることを後押ししたのではと考えた。

東京遠征

2016年8月22日社会人になってからの友人が結婚するということで東京に行くことになり、これは絶好の好機と思い、今までずっと行きたいなーと思ってたとこに行ってきました。
思い出しながら書くので中途半端になるところもあり、すみません。
まず、1日目は上野周辺をブラタモリしてきました。
最悪なことに東京到着時、台風の影響なのか大雨でした。猛暑でしんどいのは予想していたのですが、逆に雨で足止めされるのは以外でした。まず上野まで移動し、傘を指しながら上野公園に行きました。
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これはあの西郷隆盛像ですね。うわさのやつです。西郷の死後、これを見た西郷の妻はこんなの全く旦那に似ていないと言ったと言われています。詳しくは以前のブログ「西郷の貌」をご覧ください。キヨッソーネが書いた肖像画も実は弟の従道と従兄弟の大山厳を足して割ったような顔になっています。

 

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これは幕府軍彰義隊のお墓です。上野戦争の激戦地であったためここにたてられたようです。薩長土肥と諸藩の官軍は江戸無血開城後、官軍に害を及ぼす幕府軍の生き残りを江戸が火の海にならないようにここにおびきだしたようです。不忍池の向こう側、今の東大辺りからアームストロング砲という最新兵器で砲撃したと伝わっています。

 

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寛永寺です。徳川家の菩提寺ですね。今は歴代将軍のお墓は増上寺に移されてるのかな。この奥は天璋院篤姫のお墓が下の写真のようにあるようですが、一般の人は中に入れないようになっています。

 

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鶯谷から見るスカイツリー
雨が上がってきていい感じに撮れました。

 

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鶯谷の陸奥宗光邸
上野公園を北に移動すると鶯谷駅へと出ますが、JRの線路を渡り、国道を渡ると住宅街にありました。紀州脱藩浪人でありながら、あの坂本竜馬の亀山社中後の海援隊にも属した陸奥さんです。維新後は外相として不平等条約の撤廃に尽力しました。

 

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不忍池はほぼ全面蓮に覆われて水面があまり見えない
お昼ご飯を食べたあと、晴れ間とともに暑さも出てきたので電車で上野まで戻りました。不忍池を西側に歩いていきました。途中人だかりがあるなーと思ってたらみんなポケモンGoをやってました。異様な風景でした
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今日の最後の目的地、旧岩崎邸に到着です。龍馬伝にも出てた、三菱の創始者、岩崎弥太郎が建てた家です。元は土佐の地下人でしたが参政、後藤象二郎に抜擢されて
役人として長崎で働いているときに龍馬と知り合ったようです。というか弥太郎は土佐藩の長崎での会計係をしており、龍馬は海援隊に必要なお金を弥太郎に無心しに来てたようです。独立してからは、グラバーの助けを借りつつ最初は郵便運搬、炭鉱経営をして財を成して、それから徐々に多方面に仕事の手を伸ばしていきました。
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成り上がり者というか勝ち組というかとりあえずすごい。明治という時代を考えると贅の限りを尽くしたつくりですね。

 

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これはお庭ですが、ここで龍馬伝の撮影があったのではないかなー

 

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御徒町のアメ横
上野から歩いて御徒町に向かいます。夜は横浜で働いている小学校からの幼なじみと飲む約束です。途中でなんだか賑やかなとこがありました。彼が探してくれた飲み屋で、まずは久々の出会いを祝して乾杯??????色々と話してるうちに野球の話になり、僕が広島カープが好きだということで、それならカープを応援できるお店に行こうとなりました。御徒町から2〜3駅の神田と言うところにやって来ました。
神田の広島カープを応援する居酒屋にて
残念ながら私顔が逆向きですね。
これは友人の渡邉氏。ホークスファンながら最近情けないということでこの日は一緒にカープを応援してくれました。当然つまみは広島風お好み焼き。東京まで来てなんでやねん(゜o゜)\(-_-)そしてこの日は接戦でしたがヤクルトに2対0と勝ち、僕の好きな黒田も8勝目をあげることができました。きょーもカープはかーちかーちかっちかち??????彼とはまた関西、福岡でも会おうぜと言ってお別れしました。
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浅草の浅草寺
疲れきった私はこの日泊まる浅草のホテルに向かいました。

 

翌日江戸城周辺を散策しました。
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子爵品川弥ニ郎公像
長州藩の吉田松蔭門下生です。高杉晋作や桂小五郎とも行動を共にしています。松方内閣時代の内務大臣です。
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元帥陸軍大将大山厳公像
西郷さんの従兄弟ですね。ここから田安門を戻って皇居の西回りを南下することにしました。

熊本城 熊本県

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2012年8月13日前日家族で阿蘇温泉旅行に行った帰りに行ってきました。俺みたいな歴史マニアなんてそういないだろうみたいな軽い気持ちでいくと・・・もう駐車場は満車でなかなか入れない。城周りにも人がわんさか。最近よく観光地で見かける中国人の富裕層観光客もちらほら。そしてお前ら絶対加藤清正のかの字も聞いたことないだろうみたいな、絶対歴史に興味ないような方々まで。要するに熊本に来たら、とりあえず行っとこか的な感じでしょう。まあ内の嫁も母もそうですけどね(泣き)
ここは豊臣秀吉の家臣で、後、関が原では石田三成嫌いのため東軍の徳川家康に付いた築城の名手、加藤清正公が築いたお城です。対島津戦を想定して強固な造りにしたそうです。それから200年後本当に対島津戦(日本最後の内戦といわれる西南戦争)がおこるとは清正でも思わなかったでしょうが。しかも熊本鎮台司令官の谷干城は西郷隆盛軍の猛攻をしのぎました。司馬遼太郎の「翔ぶが如く」にありましたが、西郷は「我々は新政府軍に敗れたのではなく加藤清正(が作った城)に敗れた」と言わしめたほどの堅固さなのです。
まあ加藤氏は清正の後、あっさり改易となりその後は細川氏が転封され以後明治維新まで続きます。あの細川護煕内閣総理大臣を産んだ細川氏です。
清正は武将としても有能ですが、城造りも上手でした。名古屋城の築城にも関わっています。この熊本城は広さだけでいったら大阪城よりも広いんじゃないでしょうか。まあ現在の大阪城は徳川時代に修復されたものですから、豊臣時代はもっと広かったみたいですけど。ただ歴史マニアとして誇りに思いたいのはこの城には、大阪城や名古屋城と違って城内にエレベーターがないことですね。まあお年寄り、体の不自由な人にはうれしいかもしれませんが、私としては城の中にあんなものがあったら違和感があるいうか興醒めしてしまいますね。歴史ロマンもあったもんじゃない。そこは清正も喜んでいると思いますよ(たぶん)。

 

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二様の石垣

 

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熊本城おもてなし隊(清正と愉快な仲間たちの皆さん)

 

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城内の大銀杏
朝鮮出兵時、蔚山城篭城戦の教訓で清盛は城内に多くの銀杏を植え、多く の井戸を掘った。

 

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熊本鎮台司令長官 谷干城(たにたてき)
幕末時代は龍馬を尊敬する土佐人志士だった。

 

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左から勝海舟、坂本龍馬、横井小楠、松平春嶽、細川護久
熊本出身の横井小楠は坂本龍馬らに影響を与えた儒学者。のちに福井藩の松平春学の政治顧問になった。

 

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熊本といったら、やっぱり馬刺しですね。これを食べずに帰れるものか!

黒谷 金戒光明寺 京都市左京区

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2011年12月21日まだ小さな息子と2人で行ってきました。法然さんが建てた浄土宗の大本山です。ここは幕末、京都守護職を命じられた会津藩主、松平容保が本拠としていたところです。京都守護職はあの新撰組も、その配下においています。だから、ここには新撰組の近藤勇や土方歳三も訪れたと思われます。
京都守護職とは尊王攘夷運動(特に長州、土佐、薩摩)による天誅などの人切り、テロ事件で騒々しくなった京都の治安を守る意味で徳川幕府が設置した機関です。なるほど京都の町が一望できるこの寺を選んでいるわけですね。
他には平安時代に源氏の武将、熊谷直実が法然さんを尋ねてたときに鎧をかけたという松が残っていました。直実は一の谷の戦いで一騎打ちにより倒した平敦盛をおもい慙愧の念と世の無常を感じて、出家を望みここを訪れたそうです。

 

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松平容保

 

文久2年(1862年)28歳 5月3日、家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられる。幕政参与。閏8月1日京都守護職に就任する。この時、容保は時疫にかかって病の床にあり、再三これを固辞した。しかし政治総裁職松平春嶽や幕臣たちは日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公(正之)ならばお受けしただろう」と言って詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。

新選組壬生屯所と花街島原と池田屋 京都市内

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局長近藤勇像           壬生寺

 

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前川邸            長州藩士を匿った古高俊太郎が拷問を受けた土蔵

 

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新撰組最初の屯所となった八木邸  八木邸で近藤一派に敵対していた局長 芹沢鴨は殺害された。

 

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壬生屯所から南へ数百メートル行くとある花街島原  輪違屋

 

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高級料亭であった角屋 新撰組の幹部クラスが通っていた

 

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木屋町三条の池田屋騒動の碑
新撰組により肥後藩宮部鼎蔵、長州藩吉田稔麿、土佐藩望月亀弥太、北添佶摩ら有能な人物が殺害された。
現在は居酒屋になっている。

 

2010年10月24日嫁と共に壬生界隈を訪れました。八木邸では入場料を払うと新撰組の簡単なお話を聞かせてもらえ、内部を見学させてもらいました。土方らが芹沢を襲ったときの柱に残る刀傷を見ました。壮絶な戦いを想像させるものでした。新撰組が名を世に示したのはやはり池田屋事件による活躍でしょう。新撰組といえば長州、土佐の尊皇攘夷志士からして見れば、非常に恐るべきものであったと言われています。特に土方、沖田、斉藤はとても強かったようですね。司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」や「新撰組血風録」によく書かれています。竜馬や桂も時々遭遇しては、命からがら逃げ切っていたようです。そんな新撰組ですが、切った不逞浪士よりも、実は粛清で内部殺害した人間の方が多かったようです。まさに鬼の副長と言われるように土方ににらまれると命を落としている人が多いように思います。200人近く膨れ上がった隊士の規律を守るには鉄の掟を持ってしないと隊の規律が守れなかったようですね。また、近藤を表の太陽のような大将とするために、土方は自ら憎まれ役の裏方をかって出たのでしょう。現代から見れば、時代遅れの人切り集団と揶揄されることもありますが、もとは農村の一道場から出てきた農民の若者達が武士へとあこがれて、徳川家へと変わりない忠誠を働いた結果とも言えるかもしれないですね。

 

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期に、主として京都において、反幕府勢力弾圧のための警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った非常警察・軍事組織である。幕末、会津藩主で京都守護職の松平容保(黒谷金戒光明寺)の支配下にあった京都の治安部隊。隊員数、約60〜200名。京都の治安部隊としては、他に旗本、御家人で構成された京都見廻組があり、浪士(町人、百姓身分を含む)で構成される新撰組は会津藩預かりという非正規部隊であった(後年、近藤ら幹部は幕臣となった)。新選組はいわば“佐幕派”であり、池田屋事件などで京都に潜伏する過激派・尊王攘夷論者や不逞浪士の取り締まりにあたった。その一方で、局長の近藤勇らは新選組内部で凄惨な権力闘争を行い、内部の敵対勢力とみなせば容赦なく粛清した。

二条城 京都市中京区

2010年9月23日に親父と行ってきました。ここは外人さんと修学旅行生がいっぱいでした。京都に住んでたとき、よくランニングに来てましたが、中に入ったのは初めてです。ここは、江戸幕府が政権を朝廷に返上した大政奉還と言う重要なことが行われたところです。しかし残念ながら、その大政奉還が行われた二の丸内部の大広間は撮影が禁止されておりここには載せることができませんでした。大政奉還自体は武力をもって幕府を倒したくない討幕派(坂本龍馬ら)の考えを土佐藩、後藤象二郎が将軍慶喜に建白したものでありました。この時点で、薩長はすでに秘密攻守同盟を結んでおり、2藩は武力で倒幕し、慶喜の首を取ることも考えていました。そのため、この大政奉還により倒幕する大義名分が無くなってしまったのです。私はこのことが、龍馬の命を縮めることに繋がったのではないかと考えています。龍馬亡き後も、薩摩は特に幕府をあらゆる手を使って挑発します。そうして勃発したのが鳥羽・伏見の戦いさらに戊辰戦争です。

 

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外堀

 

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二の丸正門             大政奉還が行われた二の丸

 

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昔は天守閣があった本丸        清流園

 

徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。
1867年(慶応3年) 9月、慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。このとき二条城には旗本を中心とする徳川家直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄・永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。

京都御苑(京都御所) 京都市上京区

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禁門(蛤御門)と今も残る銃弾の痕

 

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木島又兵衛の戦死地跡

 

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御所内、禁裏の正門、建礼門。この奥に天皇がいた。

 

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猿ヶ辻。禁裏の北東端。攘夷派の先鋒であった公卿、姉小路公知が過激派浪士により暗殺された場所。

 

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梨木神社。御所の東端しにある。三条実美を祀る官幣大社。

 

2010年9月23日に親父と行ってきました。この他にも、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らが戦死した、鷹司邸や、学習院の跡、公武合体政策により徳川家茂に嫁いだ皇女和宮生誕の地跡もありました。その他には、御所のすぐ北に薩摩藩邸跡、北西にはあの薩長攻守秘密同盟が結ばれたと言う小松帯刀邸跡があります。
久坂玄瑞は吉田松陰が松下村塾の中でも、高杉晋作と共に優れていると言い、よく2人を競わせていました。高杉は第2次長州征伐(四境戦争)の後、結核で死んでしまいますが、久坂も若くして死にました。しかし、2人の志は桂を初めとする長州志士にしっかりと受け継がれていきます。2人の死は決して無駄ではなかったと思います。
禁裏以外は自由に歩き回ることができますが、中はとても広いです。禁裏は予約を取ると見学できるようです。
昔、京都に住んでたころは外周をランニングしに来てました。たぶん4キロ弱くらいやったかな。
武士に政権が渡る鎌倉時代までは、政治の中心地だった所。まあ室町幕府は京都だったんですけど。
ここに天皇がいるということで、都と言えば京。京都の町並み、風習、文化が広まり根付いたんでしょうね。
明治に入り、政権も東京、天皇も東京に行ってしまいました。京都の人たちはどう思ったんでしょうね。古い慣習を大切にする京都の人たちにとっては明治政府のやり方は強引に写ったかもしれませんね。

 

1864年(元治元年)7月17日朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(徳川慶喜)は退兵を呼びかけるが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が、会津・桑名藩兵と衝突した(最初の写真右上は銃弾の跡)。一時長州勢は筑前藩が守る中立売門を突破して禁裏(京都御所内)に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅、禁裏内で来島又兵衛(2番目写真は戦死地跡)、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らは戦死した。
当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになる。 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行う。

丸山花月 長崎県

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2010年8月8日に父と妹と行ってきました。グラバー園から車で亀山社中に向かっている最中に、ふと見つけたので寄ってみました。本当は昼食でも食べて中を見たかったのですが、土日は昼食もそこそこのお値段がするということでしたので、泣く泣くあきらめて外観だけを見て帰りました。料亭のホームページを見ましたが、それはもうきれいなお部屋と中庭があるようで、京都のような敷居の高さを感じました。今、龍馬伝この辺りをやってますね。お元役の蒼井優ちゃん奮闘中です。ここは去年の紅白歌合戦で福山雅治が歌った場所です。福山雅治は長崎市内の稲佐山の麓に実家があるようです。稲佐山では凱旋ライブも行ったようですね。

 

長崎県長崎市丸山町にある史跡料亭。
江戸時代、長崎の丸山は江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大遊郭とうたわれ栄えた場所です。花月(引田屋)は寛永19年(1642)に誕生しました。昭和35年には長崎県の史跡に指定されました。頼山陽の書、坂本龍馬直筆の書などが展示してあります。国賓の晩餐会にも使われる「竜の間」やタイル張りの床に和風の天井、中国の様式を取り入れた窓を使った「春雨の間」がある。花月の庭園は長崎三大庭園の一つに数えられています。八百坪の庭園は元禄時代の作庭と言われています。
花月は丸山随一の遊廓引田屋の庭園にあった亭で花月楼とも呼ばれていました。丸山は江戸から幕末、明治維新まで長崎を舞台に活躍した国際人の社交場であり、今日で言うところの高級文化サロンでもありました。ドイツ人シーボルトが当時の引田屋の遊女・其扇(楠本滝)とのロマンスを実らせたのはよく知られています。

 

幕末には維新の志士たちの出入りも多く、大広間の床柱にある刀痕は坂本龍馬が残したものといわれています。さらに引田屋の裏口付近で英国人水夫が暗殺されたイカルス号事件で、丁度その夜花月で遊んでいた海援隊の菅野覚兵衛・佐々木栄の二名に嫌疑がかけられたために龍馬は奉行所に苦情書を提出、その下書きを掛軸として亭内の資料館に展示しています。三味線や琴、踊りが得意で才色兼備のお元は龍馬がとくにひいきにした芸子で、龍馬はお元にいつも酒の相手をさせていたと言う。龍馬と後藤象二郎が歴史的な和解をした会談に同席していたとも言われる。

亀山社中 長崎県

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2010年8月8日父と妹と行ってきました。休みということと、龍馬伝による効果も相まってすごい人でした。中が狭いこともあり、玄関でいくらか待たされました。暑さもあり非常にしんどかった(゜o゜)また位置も両脇をお墓に挟まれてけっこうを坂を登らないといけないとこにありました。昔は荒れ果てていたようですが、観光客の多さのせいもあり、最近きれいに整備されたようです。龍馬の成し遂げたことで一番重要なことは犬猿の中の薩長を仲直りさせた薩長同盟だと考えています。これが倒幕への大きな原動力になるからです。その薩長同盟に欠かせないのがこの亀山社中です。龍馬はやはり当時まれに見るアイデアマンだったんだろうなと思いました。そして、多くの重責の位置にある大人物を説き伏せる話術とその行動力には圧倒されます。今回の帰省は、近年まれに見る体調の悪さだったのであまり食欲が出ず、長崎の食をあまり楽しむことができませんでした(ToT)中華街もうちょっと楽しみたかったな〜

 

龍馬ら神戸海軍塾塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、慶応元年(1865年)5月頃に龍馬らに出資して「亀山社中」を結成させた。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曽根英四郎家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家そして京都の酢屋に事務所を設置した。
亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、当時、水火の如き関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、後の薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。