原城 長崎県南島原市 続日本100名城

令和6年5月3日に島原城から南下して原城に到着しました。

 

ここは島原の乱で天草四郎率いる一揆軍が籠城した城です。

 

私がこれまで訪れた城の中でも最も戦死者が出たであろう所です。

 

まだ地中に眠っているかもしれない一揆軍がどんなことを考え、どのように戦ったのか考えながら歩きました。

 

2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産登録されました。

 

元々ここは肥前有馬氏の本城であった日野江城の支城として1599年から1604年にかけて有馬晴信が築いた城郭です。全体的には土造りの曲輪が並立する中世的な構造をベースとしながら、本丸のみは総石垣造りで近世初頭頃の城郭の様相となっています。

 

種子島へのポルトガル船来航以来、九州では多くの大名が洗礼を受けキリシタンとなりました。晴信も例外ではなくキリシタンとなり当然島原の住民たちも多くがキリシタンとなりました。1612年の晴信の失脚、1614年の有馬直純の日向転封を経て、松倉重政の支配となり1618年の島原城築城開始に伴って廃城となりました。松倉重政は、島原半島が火山灰により米の耕地が少なく土地が痩せて3から4万石であったもかかわらず10万石並の重税をかし、また大きな島原城の建設に従事させ住民に圧政を強いました。さらに重政の後を継いだ息子の勝家もその悪政を継ぎ、ついに住民は蜂起したのです。

 

ブログ(史跡/100名城・続100名城8)
天草四郎像

 

また1612年の幕府による禁教令により国内のキリシタンに対する取締りが強化されました。松倉氏によるキリシタン弾圧の激しさが住民蜂起の理由でもありました。

 

同じく天草地方でも圧政に苦しむ領民たちが蜂起して代官所や城を襲撃しました。一揆軍には農民だけでなく商人や旧小西家家臣や有馬家家臣などの武士も含まれていました。そんな彼らに担がれたのが旧小西行長家臣益田好次の子息四郎時貞でした。そして天草と島原の一揆軍は合流し3万近くに膨れ上がりました。そしてこの廃城となった原城を修復し拠点として籠城することになったのです。

 

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板倉重昌石碑

 

板倉重昌は江戸幕府から最初に派遣された島原の乱鎮圧のための司令官です。思うように戦果が挙げられず、焦った重昌は原城に突撃して討ち死にしました。重政の子孫により討死の地に碑が建てられました。

 

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三の丸跡

 

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二の丸跡
現在も発掘作業が進められています。一揆軍の生活に使われていたものやロザリオや遺骨などが出てきているようです。

 

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本丸正門後の石垣

 

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埋め門跡

 

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竪穴建物群跡

 

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本丸門跡

 

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本丸
櫓台や複数の門を伴う巨大な虎口が設けられ、礎石建ちの瓦葺き建物がありました。

 

1638年2月末幕府が派遣した2人目の司令官松平信綱は知恵伊豆と呼ばれる老中でした。

 

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原城包囲網図(松浦資料博物館蔵)関口宏の一番新しい中世史江戸時代より

 

九州諸藩の大名と応援も含めて総勢12万の大軍で囲み、海上封鎖もする徹底的兵糧攻めでついには一揆軍も力尽きました。1人の内通者をのぞき、老若男女全員が撫で切りにされました。天草四郎はここで首を切られ、晒されて、長崎市内でも晒されました。

 

幕府軍からの申し入れで人質を取られて無理やりキリシタンにならされた者は免罪するということで1万人近くが降参したという言い伝えもあります。

 

しかしほとんどのキリシタンは信仰のために死ぬということで潔く首を切られたとも言われています。

 

松倉勝家は幕府に悪政を問責され大名には異例の斬首という処分になりました。

 

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本丸から南西側の海岸を望む

 

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本丸から東側には有明海を挟み天草諸島が見える
一揆軍が当てにしていたポルトガル船は応援に来ず、幕府側のオランダ船が原城に向かって砲撃してきたと伝わります。一揆軍の絶望はいかほどであったろうか

 

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原城案内図

 

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観光事務所にて御城印を購入しました。

 

有料ですが地元ガイドによる城跡案内もあります。

 

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令和6年8月11日大阪お城フェスで購入しました。

 

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南島原市教育委員会による原城再現CG

 

スマートフォンやタブレットからご覧になることができます。

 

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原城再現CG

 

この城を全体を通して歩いたのですが、2から3万人が籠城するには狭いような気がしました。居住やゲリラ戦が可能な地下道や地下部屋などがあったのではないだろうか?と考えてしまいました。また、あまり高い山ではなく要害にも思えないので、よほど高い石垣と攻撃用の櫓が幾重にも築かれていたんだろうなと思います。もちろん鎮圧後に容赦なく破壊されていますが。

 

しかし、キリスト教入信しなさいとかやっぱり棄教しなさいとか嫌だと言ったら皆殺しとか、お上の言うことは無茶苦茶ですね。さらに武士も含んだ一揆勢ということで殉教者扱いもされていない。こんなに報われないことあるでしょうか?デウスに救われていることを祈るばかりです。

 

島原城 長崎県島原市 日本100名城

令和6年5月3日にゴールデンウィークに福岡に帰省し、両親とともに行ってきました。

 

渋滞に巻き込まれて大変でしたが、何とか到着しました。

 

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城の石垣とお堀

 

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横谷掛け

 

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堀から見える観光復興記念館

 

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堀から見る森岳公民館

 

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復元天守
この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この地に五条(奈良)から入封した松倉重政が島原城を築きました。元和4年(1618)着工、約7年の歳月を経て完成。同時に城下町も整備しました。二代松倉勝家の時に島原の乱が起きました。

 

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天守
層塔型総塗込の五層の天守閣をすえる本丸。
松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、松平氏と4氏19代の居城となりました。その間寛永14年(1637)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政4年(1792)うち続く地震と大津波にも耐えてきました。
明治維新で廃城になり、払い下げ・解体されましたが、昭和39年(1964)天守閣が復元されました。

 

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西の櫓

 

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天守最上階から見る巽の櫓

 

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松平氏の鎧、兜

 

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島原城周辺図

 

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天守から見る普賢岳

 

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天守から見る有明海
向こうに見えるのは熊本

 

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時鐘楼
松平忠房が作った。時間ごとに突き鳴らして、時刻を知らせました。

 

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武家屋敷をしきる回廊と水路

 

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武家屋敷篠塚家

 

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郷土料理具雑煮「姫松屋」
天草の乱時に籠城した一揆軍はもちと山海の幸を煮込んで食べたと言われています。それを再現して味を整えたものが島原の郷土料理となりました。

 

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天守にて切り抜きの御城印を購入しました。

 

この後は急いで原城に向かいました。