グラバー園 長崎県

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2010年8月8日帰省したときに、祖母の法要ついでに父と妹と行ってきました。昔はグラバー邸だけが見れたようだったのですが、最近は敷地も広くなり他の建物も見れるようになってました。この日は快晴ですごく暑かったです。グラバーはスコットランド人であり、「スコットランド人は片道切符しか買わない」と言われるようにパイオニア精神とハングリー精神が強かったようです。龍馬とは武器商人として関わっていきます。そのことに関しては亀山社中の項に書きます。またグラバーは世界をまたにかける秘密結社フリーメイソンの一員であったと言われています。そして龍馬もみたいなうわさがありますが、実際のところはどうなんでしょうね。何か怪しいですけど。あと、グラバー邸には志士を匿った隠し天井裏部屋がありました。これは必見です。

 

グラバー園(グラバーえん)とは、長崎県長崎市南山手町の斜面上にあり、旧グラバー邸などの西洋館がある公園。グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築している。
旧グラバー住宅
貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築。1863年(文久3年)の建築。裏手には馬小屋や貯蔵庫なども残っている。フリーメイソンのマークもある。三菱重工業 長崎造船所を見下ろす位置にあったため1939年(昭和14年)に戦艦武蔵の建造を秘匿する目的で買収され所有が三菱重工業へと移った。1957年(昭和32年)には同造船所の創業100周年を記念して長崎市へ寄贈された。1961年(昭和36年)6月7日、主屋・附属屋が国の重要文化財に指定。

御香宮、城南宮 京都市伏見区

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御香宮 ここに薩摩軍が陣取り、坂下の伏見奉行所に陣取る旧幕府軍と激しく戦った。
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御香宮近くのお料理屋の魚三楼さん 戊辰戦争時、激戦地であり壁に銃弾の跡が残る

 

2010年7月19日嫁と嫁のお母さんと行って来ました。御香宮は安産祈願の神社と言うこともあり、一緒にお参りもしてきました。この伏見の辺りは私が営業をやっていたころの担当地域であり、よく回っていました。ここで近代日本を作る革命戦争の火蓋が切って落とされたのだな〜と思うと感慨深いものがありました。この緒戦で新政府軍がもし敗れていたら、当初の見込みは外れたわけで、せっかく龍馬が行った薩長攻守同盟も無駄に終わり、維新が数十年遅れたかもしれませんね。緒戦に勝ち、勢いをつかむことが如何に大事か教えられる出来事です。

 

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戊辰戦争の発端となる鳥羽伏見の戦いが始まった城南宮あたり

 

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい, 慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。慶応4(1868)年正月元旦、慶喜は討薩の表を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。御香宮は新政府軍が陣所とし、眼下の新撰組をはじめとする幕府軍が駐屯した伏見奉行所を攻撃した。伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れた。3日夕方には、下鳥羽(現在の京都市伏見区城南宮)付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。しかし旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し敗走した。4日に朝廷では仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え、新政府軍が官軍となる。

寺田屋 京都市伏見区

2010年7月19日嫁と嫁のお母さんと行って来ました。
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実は私、ここに来るの4回目です。最初は会社の人と、次は関東の友人と、そして我が親父を案内しました。しかしなぜかいつもデジカメを持ち忘れていました。京都で龍馬と言えばここに連れてきてしまいます。上にも書いてあるように伏見奉行所からの襲撃とお龍さんのエピソードで有名ですもんね。

 

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しかし、行く度に新たな発見をするので飽きません。連休ということと「龍馬伝」の影響もあり、今までで一番の人の多さでした。左の写真はその事件の時の龍馬が放った?ピストルの弾痕、中央写真は事件当時、お龍さんが入っていたという風呂桶、そして右の写真はお龍さんが奉行所捕り方に囲まれてることを龍馬に知らせるために駆け上がったという階段ということになってます。しかし、最近の見解では鳥羽伏見の戦いでこの辺りは一面炎上したため寺田屋も残っていないはずであり、下のようなことが言われています。ともあれ、この新聞記事を寺田屋内部で掲示してありましたし、真偽のほどは素人なので分かりませんがこれまでの寺田屋の取り組みは評価したいですね。それよりも面白い写真が掲示してありましたので見てください。

 

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これは寺田屋内部に掲示してあった1枚の写真です。写真右の人物立ち位置図を見てみると層々たるメンバーではないですか(゜o゜)維新に活躍した薩長そして海援隊、陸援隊、公家それから勝海舟まで入っているではないですか!!!私のデジカメでは限界があり鮮明な画像で見せられないのが残念です。見たい人はぜひ一度寺田屋に足を運んでください。一見の価値はあると思います。しかし、これはいつの時期に撮られた写真なんでしょう?このメンバーからいって、薩長同盟以後であることは間違いないと思いますが、それにしても討幕派ほとんどの中に幕府側の勝海舟がいるのが解せませんね〜偽造写真なのか、それとも人物立ち位置図が単に誤っているのか、そもそも何の集まりなのか謎は多いです。

 

主なメンバーとしては、一番左端が勝海舟、その下の顔の大きい人が大村益次郎、その下の腕組している人が桂小五郎、その上が中岡慎太郎、その右上が江藤新平、一番下の右から4人目が坂本龍馬、その上が高杉晋作、真ん中付近黒い着物で若干斜め向いてる人が西郷隆盛、その左が大久保利通、その左が小松帯刀。

 

東京の上野駅の西郷さん像は生前写真を全く残さなかったため、西郷さんの親類から想像して書いた絵をモデルにしており、完成後に西郷さんの奥さんに見てもらったところ全然似ていないと言われたらしい。この写真の存在はそのことをくつがえしますよね。

 

まあ本物であればこの写真を撮られたまもなく龍馬は暗殺されるということですが・・・

神戸海軍操練所 兵庫県神戸市

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諏訪山公園 海軍営の碑

 

勝海舟は、海軍操練所門下から池田屋事件、禁門の変に関与した者が出たことを受けて失脚する。失脚直前、既に危険を感じていた海舟は、神戸に「海軍営の碑」建立を計画していたが、実現が間に合わなかったので、庄屋の生島四郎太夫に碑を預けた。この碑は、大正4年(1915年)になって神戸区に預けられ諏訪山公園の金星台に立てられることになった。

 

2010年6月12日1人で行ってきました。異人館のさらに上のほうにあります。右の写真は諏訪山神社です。ここは展望台まで行くと非常に見晴らしが良かったです。神戸の夜景がきれいに見えそうなので夜はたぶんデートスポットになってるんじゃないかな。

 

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勝海舟寓居跡(生島四郎太夫別邸)

 

生島四郎太夫は、神戸村の庄屋で勝海舟の海軍塾、海軍操練所設立に協力した人物である。祇園神社近くに生島四郎太夫別邸があり、海軍操練所当時は勝海舟もここに寓居していた。海舟は生島に「この土地も今はつまらない百姓家ばかりだけれども、早晩必ず繁華の場所になるから、地所などはしっかり買っておけ。」と言ったところ、生島は半信半疑ながらに、俺が言ったとおり地所を買い入れておいたら、はたして維新後には1坪何10円という高値になって非常にもうけたそうだ。そのあと何かで少し損をしたということだけれど今でもなかなかの資産家だよ。という談話が残っている。

 

先ほどの諏訪山公園から車でちょっと行ったところに、平野町の祇園神社(有馬街道入り口当たり)があり、その石段から東に少し歩いたらありました。中に入れるのかな〜と思い木戸を押しましたがやはり開きませんでした。瓦には武者返しのような棘状のものがいっぱいでした。泥棒防止のためかな?

 

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旧海軍操練所跡

 

海軍操練所は、文久3年(1863)14代将軍家茂がこの地を視察した折、勝海舟は海軍の興隆の重要性を説き、合わせてこの地が天然の良港であることから、大阪湾の警備のためにも神戸に海軍操練所を建設することを願い出て、許されたもである。元治元年(1864)5月に開所となり、勝海舟は同時に軍艦奉行に任じられた。出身藩に関わらず塾生を集め、活況を呈したが、その直後、池田屋事件や蛤御門の変に関与した塾生がいるとう嫌疑から、わずか1年足らずで閉鎖に追い込まれた。勝も軍艦奉行を解任され、江戸に召還されてしまった。短い活動期間ではあったが、海軍操練所から、坂本龍馬や陸奥宗光といった逸材を生んだ。

 

三ノ宮駅から京町通りを南に下ると、阪神高速道路京橋入り口付近にあります。
勝海舟の家は随分、山のほうにあったけど、塾生たちの宿舎は現在の三ノ宮駅辺りにあったみたいですね。

 

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港町神戸の風景 メリケンパーク付近 近くに元町中華街などもあります。

 

萩市街地 山口県萩市

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萩城址毛利輝元公像

 

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萩城址のある指月山

 

2010年2月13日山口行ってきました。久々に旅行してみました。山陽自動車道通って、車で萩まで5時間でした。
嫁はこういったことにほとんど興味がないのでご当地の料理を目当てにして行きました
萩市の旅館・萩一輪(お薦めです機会があればぜひ)というとてもよいところに泊まりました。ふくづくしの会席で腹を満たし、お風呂で旅の疲れを癒しました部屋からは萩城のある指月山とその周りを囲む日本海が見えました。
翌日は、朝飯を食べた後、マイクロバスで行く旅館の会長さんによる萩城下町のご説明を歴史を交えてしてもらいました。とても分かりやすい講義で弟子入りしたいほどでした。昔は修学旅行がよく萩に着てたそうですが、最近は海外とか行ってめっきり減ったそうで悲しいそうです。おじいちゃんいつまでもお元気でがんばってください。
それから、萩博物館に行って、近くにある桂小五郎生家、高杉晋作生家行きました。ともに明治維新に関わった偉大な人物です。とくに桂は大村益次郎の才能を見抜き、長州藩に推挙しました。彼がいなければ大村は平凡な蘭学者で終わっていたかもしれません。桂はさらに、薩摩の西郷隆盛と大久保利通とともに維新3傑の1人です。
後は、彼らを指導して最終的は安政の大獄により処刑された吉田松陰の松下村塾とその近くある伊藤博文の旧宅に行ってきました。松下村塾はたったの8畳1間でした。ここから日本を動かした多くの志士を生み出したと思うと非常に感慨深いものがありました。あと、初めて知ったのですが伊藤博文は28歳のとき初代兵庫県知事になったそうです。すごいですね。明治当初は人材をあらゆるところから探していたんでしょうね。 吉田松陰、高杉晋作に関しては司馬遼太郎氏の「世に棲む日々」に詳しく書かれてあります。
最後に萩シーマートという道の駅で海鮮丼を食べて帰りました。
行った所々親切な職員の方々から説明を受けたのですが、萩では松蔭先生と高杉晋作が人気のようでした。鹿児島の人の西郷さんひいきの様に、人望があり豪快な生き方でそして壮絶な最後をとげた人が人気なのは共通しているようですね。

 

高杉晋作旧家
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伊藤博文旧宅
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松陰神社
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旅館・萩一輪(お薦めです機会があればぜひ)さんのふくづくしの会席
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道の駅シーマート海鮮丼
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鋳銭寺(すせんじ)郷土館 山口県山口市

2010年2月12日嫁と萩観光旅行のついでに行ってきました。司馬遼太郎氏の「花神」に感銘を受けたので大村益次郎の故郷に行ってみました。近くに益次郎を祀った大村神社や益次郎のお墓がありました。益次郎が大好きだった豆腐と日本酒をお供えしとけばよかったな〜と思いました。人付き合いが苦手な学者タイプのところが自分に似てて大変好きな人物の一人です。郷土館には遺品がたくさんありました。桂小五郎に見出されなかったら、一介の医者で生を終えていたかもしれないですね。また長州藩が幕軍に勝つこともできなかったかもしれませんね。

 

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靖国神社にあるものと同じ大村益次郎銅像

 

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京都木屋町御池、大村益次郎遭難の地

 

鋳銭寺郷土館 所在 山口県山口市鋳銭司1422番地

 

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大村益次郎
文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。諱は永敏。位階は贈従三位、後に従二位。家紋は丸に桔梗。
生涯
村医
周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下となり、1844年6月まで学ぶ。弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。
嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家の娘琴子と結婚した。だが口数が少なく無愛想で、暑中に時候の挨拶をされても「夏は暑いのが当たり前です。」と答えたり、村人が診てもらうと身体のしくみ等を何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので「大坂で何の勉強したのやら」と噂され、あまり評判のよい医者ではなかったという。
桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。明倫館兵学寮総官・教授として歩・騎・砲兵士官教育を行った。大村は山口では普門寺を宿舎としていたため、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。大村は西洋兵術書を翻訳したばかりでなく、それを現状に即し実戦に役立つようわかりやすく書き改めた。さらにその教え方も無駄がなく的確であったという。
慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、6月に戦闘が開始される。大村は石州口方面の実戦指揮を担当する。その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術により幕府側をことごとく撃破し、中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃。浜田城を陥落させた。長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。
戊辰戦争
明治元年(1868年)2月、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。4月には大坂から江戸に進駐し、江戸府判事を兼任する。彰義隊の反乱に対して討伐軍を指揮し、わずか1日でこれを鎮圧する。この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。
同年5月、鎮台府の民政会計を任される。北関東で幕府残党勢力を鎮圧したのち、新政府軍の総司令官として東北地方、新潟で北部政府(奥羽越列藩同盟)と事実上の“南北戦争”である「東北戦争」を戦った。北部政府の盟主、仙台藩らの降伏後、明治2年(1869年)、函館五稜郭で幕府残党勢力の榎本軍も降伏し、戊辰戦争は終結した。
人物
・維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷隆盛を全く評価していなかった1人であり(大隈重信も同様)、西郷を建武の新政で反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。
・明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策している。

酢屋 京都市中京区

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2009年11月14日東京からやってきた友達と行ってきました。この日はちょうど龍馬の命日に当たるらしく、慰霊祭をやっていました。幕末当時は材木屋を営んでいて、その2階を亀山社中の京都支部にしていたようです。明治になってから、屋根裏部屋から龍馬の手紙が発見されたらしく、たまたま公開してあったので見てきました。非常にラッキーでした。

 

龍馬ら神戸海軍塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、慶応元年(1865年)5月頃に龍馬らに出資して「亀山社中」を結成させた。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曾根英四郎家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家そして京都の酢屋(京都市中京区河原町三条下ル一筋目(龍馬通))に事務所を設置した。

 

長州藩では前年の元治2年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵して、恭順派政権を倒して再び尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、当時、水火の如き関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、後の薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。

大宰府天満宮 福岡県太宰府市

2008年10月12日嫁を連れて、福岡案内しました。ここは私の故郷に近いため、受験のある前や初詣にはよく親に連れてもらっていました。参道はお土産屋さんが多くいつもおおにぎわいです。
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名物は菅原道真公を追いかけて京都からやってきた飛び梅ですね。梅ヶ枝餅と甘酒も素朴で大変おいしいです。
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太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は福岡県太宰府市にある神社。菅原道真を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより全国から毎年200万人以上の参詣者がある。
歴史
学問の神として知られる菅原道真が祀られている。右大臣であった菅原道真は昌泰4年・延喜元年901年に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、903年に死去した。その遺骸を都まで送ろうとしたが、大宰府から外れた所で牛車を曳いていた牛が動かなくなった。それはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、そこに墓が作られ、905年には墓所に廟が建てられた。安楽寺天満宮の創始。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社であり、また菅公の御霊廟として、篤く信仰されている。
道真の没後、京では疫病や異常気象など不吉な事が続いたため「道真の祟り」と恐れられた。これを鎮めるために919年に道真の墓所の上に社殿を建立した。これが太宰府天満宮の始まりである。また、京には北野天満宮が造られた。
道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神として信仰されるようになった。現在も参拝客が多く、学問の神様としてあがめられている
参道を登りつめた先には延寿王院があり、ここは幕末維新の策源地といわれ、三条実美たち公卿5人が3年半余り滞在したところ。土佐脱藩の土方久元、中岡慎太郎 もいたが、ここを薩摩の西郷隆盛、長州の伊藤博文、肥前の江藤新平たちが訪ねてきているが、坂本竜馬も来訪した。

幾松 京都市中京区

「幾松」は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(のち木戸孝允)と三本木の芸妓幾松(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡(京都市中京区木屋町通御池上る)です。
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京都河原町御池ホテルオークラ横の桂小五郎像(長州藩低址) 幾松のすぐ近くです

 

木戸孝允没後、松子夫人は薙髪し翠香院と号し、お二人の想い出に溢れた当屋敷で余生をお過ごしになりました。現在でもお食事、ご宿泊ができるようです。一度泊まってみたい。最近知りましたが、部屋には幕末の当時刺客に襲われてもいいように抜け道、隠し部屋があり、現在でもそのままあるようです。2008年年9月23日親父と共にお昼ご飯を食べて、念願の内部観光ができました。その模様はこちら。
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通された2階の食事所。明治の雰囲気ありますね。  明治政府高官。左から岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、三条実美、西郷隆盛

 

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新撰組襲撃時に桂が隠れたと言われる箱。     鴨川へと逃げれるようになっている隠し階段が納まっていた廊下の板。

 

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中庭には鯉がたくさん。   5500円の懐石風お弁当。さらに焼いたかんぱち、ご飯、水物も付いてて大満足でした。

 

桂と幾松のお話も聞けてとても良かったです。元は材木屋長州藩が買い取って集会所としたところだったようです。

 

文久元年(1861年)から同2年(1862年)にかけて幾松は桂小五郎と出会ったであろうと推測される。以後、桂が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけた。
元治元年(1864年)6月、池田屋事件が起こる。続いて起こる禁門の変以降、長州藩が朝敵とされ、桂は幕府に追われる身となる。二条大橋周辺に乞食の姿となって隠れ潜んでいた桂に、幾松はよく握り飯を持っていったと言う逸話はその頃の事であると考えられる。但し、実際に潜んでいたのは5日ばかりと伝えられる。また、新撰組局長近藤勇に連行され、桂の居場所を聞かれたこともあったと伝えられている。
桂は、その元治元年8月から慶応元年(1865年)4月にかけての間、商人・廣戸家の援助を受けながら出石に潜伏する。名前を廣江孝助と変え、ある時は荒物屋主人、ある時は寺男となり、転々と名所を変えながら潜伏し続けた。この潜伏中、幾松がある会津人に侵されかけたとがあり、その際三味線を折って投げつけ対馬藩邸に助けを求めたという伊藤博文の直話が残っている。
桂が逃れた後、幾松は長府藩士奥善五六郎と、京師東山の割烹店のあるじ曙久斎の三名で対馬藩濱屋敷に匿われていたが、次第に幕府の探索が厳しくなってきたため、対馬藩士多田荘蔵が大坂より下関の馬関へと逃した。出石ではなく馬関へと向かわせたのは、幾松の身の危険を案じての事と思われる。その後、出石潜伏中の桂を迎えに行ったのも幾松である。

横浜開港資料館 神奈川県横浜市

2008年3月28日横浜観光に行きました。
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横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年、日本の開国を約した日米和親条約が締結された地において開館しました。開国につづく開港によって、横浜は日本の玄関、貿易都市として発展をはじめました。資料館中央にたまくすの木がありました。
「たまくす(写真右)」ヒストリー
横浜開港資料館の中庭にあるタブノキは、通称「たまくす」と呼ばれています。「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、1854(嘉永7)年のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」(写真左)や、「水神の祠」などに描かれた木がそれにあたると考えられています。1859(安政6)年、横浜は開港場となり、外国人居留地と日本人市街とをわける位置にある「たまくす」は、浮世絵にも登場しています。しかし、関内地区に大きな被害をもたらした1866(慶応2)年の大火によって、「たまくす」は樹形が変わるほど焼失してしまいました。大火に先立ち、水神の森周辺は領事館用地に指定されていましたので、被害をうけた「たまくす」は、イギリス領事館の庭で新たな芽をふくことになりました。 そして、明治・大正期をつうじて横浜を代表する名木に成長します。資料には「開港の当時ペルリ提督初めて上陸せしハ此玉楠の下なり、今は英国領事館構内にあり、横浜市の記念名木として市の保存に係る、数百年を経たる大樹なり」と記録されています。1923(大正12)年9月1日、関東大震災で、「たまくす」はふたたび大きな被害をうけますが、その生命は絶えることはありませんでした。イギリス領事館が再建されるに先立ち、1930(昭和5)年6月、「たまくす」は領事館の敷地内に約10メートル、現在ある位置に移植されますが、震災の被害をうけてなお豊かな葉を繁らせていることがわかります。二度の大きな被害をくぐり抜けた「たまくす」は、1981(昭和56)年日米和親条約締結の地に開館した横浜開港資料館を象徴する有形文化財として、そして近代横浜の生き証人として、今日もうるおいのある光景を与えてくれています。

 

嘉永6年(1853年)、龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている。

 

ここから日本中に攘夷の嵐が巻き起こるという重大な事件ですね。
この後、文久2年8月21日(1862年9月14日)に薩摩藩士が起こす生麦事件など一連の攘夷騒ぎが起きます。

 

その他にも横浜の見どころを観光してきました。
横浜元町中華街
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横浜みなとみらい
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横浜赤レンガ倉庫
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