柳川城址 福岡県柳川市

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平成24年8月11日お盆休みを取って家族と帰省しました。童門冬二氏著の「立花宗茂」を読んで以来ここと立花山城址だけは絶対に行きたいと思ってました。福岡が誇る名将ですからね。名将といえば、黒田官兵衛(如水)もいますが、彼はもとは関西の人ですからね。
この機会をさいわいに全く興味のない嫁と親とを連れて無理やり行きました。
最初に見えてきたのは旧柳川藩主、立花家の別邸「御花」です。藩祖宗茂から数えて現代は17代目だそうです。いかにも明治をおもわせるたたずまいですね。ここでは一般の方の結婚式もできるようです。あと敷地内には資料館もありましたが、その話は後ほど。ちょうど昼くらいに着いたので、お昼を取ることにしました。

 

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柳川といったらやっぱり鰻ですね。福柳さんというお店に入ることに。この前静岡で浜名湖のを食べたばかりなのにまた出会えるとはなんて幸せなんだ〜。しかも今回は前回と違ってお代は親持ちだったのでおもいっきりいいやつを頼みました(この親不孝物ばかちんがー)油ののりが違うね柳川のは。みんなで談笑しながら、ちょっと変わった1品料理に眼が行った。それが右写真のムツゴロウの蒲焼。確かにムツゴロウの産地、有明海は近いけど、こんなものがあるなんて知らなかった。味はまあまあでした(缶詰の秋刀魚の蒲焼のような感触でした)。

 

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柳川の名物といえば川下り

 

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お昼ごはんを食べた後は、私は父と歴史探訪に、妻子と母は川下りに別れました。御花の中にある立花資料館に行きました。ここにあの宗茂の甲冑がありました。おお〜〜〜めっちゃかっこいい。PS3の戦国無双3Zでは宗茂は「鎮西の風吹かせて見せよう」と言ってましたね(知らんかそんなこと)。島津軍が大友、竜造寺の諸城を次々に落として行き、大宰府の岩屋城では父、高橋紹運が篭城戦の後、玉砕という見事な最期を遂げた。残る立花山城を宗茂は死守し、そこに豊臣秀吉の九州征討軍が来てなんとか島津の九州制覇を防いだ。宗茂の働きは「鎮西一の兵」と秀吉に言わしめた。
宗茂にはぎん千代という妻がいたが、彼女は甲冑を着ては戦場にも打って出た男勝りの女性だった。同じく戦国無双では「立花の誇り、戦場に示さん」と言ってました(どうでもいいかそんなこと)」。そうなんです。実は宗茂はぎん千代の父、立花道雪が同じ大友家臣の後輩であった高橋紹運に頼んで向かいいれた婿養子なんです。よってぎん千代は自分のほうが正当な跡継ぎだという自負が強かった。このことが夫婦が仲が悪かったという後世の言い伝えになっています。まあほんとはどうなのか分かりませんけどね

 

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ここで父と分かれて、柳川城へと足を運びました。柳川城の痕跡は、市内を囲むお堀があります。もう1つありました。現在の柳川中学と柳川高校の間(というかほぼ柳川中学の敷地内)に左写真の石垣、それを乗り越えたところに狭い平地があり右のような松ノ木があるだけですが。ここにかつて大きな城がそびえていたようです。お堀を生かした堅固な城は2度の鍋島軍との戦にも陥落しなかったとのこと(宗茂のライバルとして鍋島直茂は有名)。宗茂は秀吉に恩があるため、関が原の戦いでは西軍に付き、一旦この柳川という領地を失うのですが、徳川幕府の時代、2代秀忠にその実直さを認められ再びこの柳川の領地をもらうことになった。

 

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この柳川高校テニスコートはあのむさくるしいくらいに熱い男、松岡修三を産んだ地でもある。そして近くには、あのやわらちゃんこと田村亮子を産んだ柔道場もあるのだ。う〜ん柳川て偉大な人をたくさん産んでるな〜

 

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立花家家臣十時(ととき)邸

 

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宗茂の父、高橋紹運を弔った天艘禅寺と立花家の菩提寺、福厳寺

 

柳川城跡を後にし、西側から時計回りに歩いていきました。まずあったのが、十時邸。十時摂津と由布雪花、小野和泉といえば宗茂の家臣として有名です。現在でも子孫の方が住んでるようでしたので、じろじろ見ると危ない人と間違えられそうなのでさっさと退散しました。あと立花道雪、ぎん千代、宗茂を祀った三柱神社も行きたかったのですが遠く離れていたので今回は諦めました。いろいろとお寺がありましたが、京都のお寺のように気軽に中に入れるようではなかったので、とりあえずお祈りだけして帰りました。あ〜真夏のさなかだいぶ歩いた割には、いまいち得るものが少なかった。こんなんだったら川下り一緒にして御花のきれいな庭園見てれば良かった。
一人くたくたになりながら皆と合流し、運転をがんばり家路に着く私であった・・・

 

駿府城 静岡県静岡市 100名城

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再建東御門、巽櫓

 

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東照大権現(徳川家康)像

 

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北御門と二の丸水路

 

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徳川家康鎧

 

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徳川家康像

 

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家康お手植えみかん

 

平成24年7月1日に行って来ました。前日に嫁の親族の結婚式が静岡の浜名湖の近くであったので、翌日嫁と息子と嫁の母と一緒に行きました。慣れない新車プレマシーと梅雨による雨のせいでコンディションは最悪。子供を抱えて、傘をさしながらの見学でした。静岡市が駿府城周辺に栄えているのを行ってみて初めて知りました。駿府城址が駿府公園となっていました。当時のものとしてはお堀と家康お手植えのみかんが見れました。再建された東御門、巽櫓が資料館になっていたので入ってきました。息子は鎧が怖いらしく遠くから恐る恐る眺めてました。本当は掛川城もついでに行きたかったのですが、時間もかかりそうだったし、京都に帰らないといけなかったので次回に見送ることにしました。帰りに近くのうなぎ屋さんでうな重を食べて帰りました。おいしかったです。

 

駿府城には家康が隠居して、二代秀忠に将軍職を譲ってから住んでいたようですね。まあ隠居と入っても名ばかりで死ぬまで江戸幕府の運営に関わったようです。
資料館になるほどな〜と思う東照公遺訓が書いてありました。
「人の一生は重荷を負いて、遠き道を行くが如し。いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし。心に望み起こらば、困窮したるときを思いいだすべし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵とおもえ。勝つことばかり知りて、負くることを知らざれば、害其の身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
さすが耐えて耐えて最期に天下を取ったという感じですね。

 

丹波篠山城址 兵庫県篠山市 100名城

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篠山城石垣と近年復元された大書院

 

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大書院上段の間と御徒町武家屋敷群の一つ、安間家

 

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安間家資料館内の篠山藩士中山家伝来の具足

 

平成24年5月6日ゴールデンウィークの最終日に家族とドライブがてら行ってきました。仕事の関係で休みが少なく、行楽地でもないので、たぶん混んでないだろうということで。京都縦貫道を通って2時間弱くらいでした。駐車場は城内にあったので良かったです。正午だったので、まずは近くのロマン亭さんに昼食を食べに行ってきました。丹波といえば猪肉と黒豆が有名なので、私は猪肉のしぐれ煮がのった丼、嫁は黒豆入りのコロッケ定食を食べました。とてもおいしかったです。お土産には猪肉入りのカレーを買っちゃいました。お腹も満たされたところで、さっそく散策に出かけました。まずは城の西側に面する武家屋敷を見に行きました。かやきぶきの古いお屋敷が昔ながらに並んでいました。何だか萩城下町を思い出します。その内の1軒、安間(あんま)家が資料館を兼ねていたので入ってみました。厳かな武家屋敷造りになっていました。炊事場もあり当時の生活が偲ばれます。安間家を出た後は、城の南側に出て南馬出から城に入って城内をぐるっと見学した(城の南東には室町時代に波多野氏が居座った八上の山城址をのぞめました)後、大書院に入りました。今回から日本100名城スタンプラリーをやることにしたので、さっそく記念すべき第1個目のスタンプを押しました。北海道から沖縄の城まであるので、なかなか難しいとは思いますが楽しんでスタンプ押して行こうと思います。篠山城は徳川家康が秀吉亡き後のと豊臣家を牽制するために築かれたお城です。城主は松平氏から青山氏に受け継がれました。縄張りは築城の名手として有名な藤堂高虎です。

 

 

名古屋城 愛知県名古屋市

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天守と金の鯱

 

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正門と東南隅櫓と加藤清正石曳きの像

 

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名古屋城おもてなし隊(織田信長、前田慶次、徳川家康)

 

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熱田神宮

 

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蓬莱軒のひつまぶし

 

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世界のやまちゃんの幻の手羽先

 

2012年2月10日嫁の友人が名古屋にいるということで、会いに行くついでに行ってきました。名神高速を乗り継いで兵庫から2時間半くらいかかりました。この日はとてもいいお天気でした。大阪城に続いて2つ目のエレベーターのあるお城を見つけました。金の鯱は一見の価値ありです。2013年5月29日に復元本丸御殿が完成するようです。

 

名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されている。

 

名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。
大坂城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。

 

彦根城 滋賀県彦根市

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2011年12月4日小雨の振る中行ってきました。めっちゃ寒かった。実は本当の目的はお城見学ではなく、近くの野球場で今年最後の試合があるのでついでに行ってきました。雨のせいで紅葉も散り始めていました。前来た時は天守閣まで登ってきたんですけど、今日は早朝8時集合だったんでそんな暇はありませんでした(ToT)/~~~
彦根城といえばひこニャンで有名ですね。ゆるキャラの先駆け的存在のねこちゃんです。またバレンタインデーはたくさんのチョコレートもらうんだろうなー。うらやましい。
彦根といえば徳川四天王の井伊氏が納めていた土地ですね。井伊直政と井伊直弼は特に歴史的に有名です。 井伊直政の家臣団は井伊の赤備えといって精強な部隊だったようです。 時間があったら城下町とかゆっくり見たかったです。

 

彦根城(ひこね じょう)は、滋賀県彦根市にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。

 

三木城址 兵庫県三木市

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別所長治公像

 

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別所長治公辞世の碑

 

2011年3月12日嫁と長男と行ってきました。引越しをするので最後にと思って行ってきました。城を思わせるものはないので天守跡を探すのが難しかったです。車で探しながら行くと金物博物館の館長さんに聞いてやっと分かりました。壮絶な最後をとげた別所長治公の像が勇ましく立っていました。この小さな高台でよく秀吉の大群を長期間に渡って退けたな〜と感心しました。別所公、享年はなんと22歳。城中の兵士、家族の命と引き換えに切腹されました。厳しい境遇の中、若くして立派に生きたのですね。辞世は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」。この三木は秀吉の軍師の竹中半兵衛が病死した土地でもあります。この半兵衛のあとを黒田官兵衛がついで秀吉を天下人へと押し上げていきます。

 

 播磨国内では、天正5年(1577年)5月に中播磨の御着城主小寺政職が毛利氏と争って旗幟を鮮明にするなど、多くの勢力が織田氏寄りとなる。同年10月、羽柴秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多氏の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻略、上月城の守備に尼子勝久を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入る。
 織田・別所間の関係は同月に加古川城で行われた秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和をきっかけに悪化。翌天正6年(1578年)に秀吉は中国地方攻略のため再び播磨入りするが、同年3月、吉親の甥で別所氏当主別所長治が離反し毛利氏側につく。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変する。別所氏は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始される。
 別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというものである。これ以外にも数多くの要因があり、かつては毛利氏とも友好関係であったこと、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、信長による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟兄弟の対立、姻戚関係にあった丹波の波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感などが挙げられる
 天正8年(150年)1月、三木城内の食料はすでに底をつき「三木の干殺し」状態が続いていた。これをうけて織田軍は三木城内の支城を攻略、残るは本城のみとなる。14日、城主一族の切腹によって城兵の命を助けるという条件がでる。17日、城主一族が切腹、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了する。

 

岩屋城址 福岡県大野城市

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2010年8月10日帰省したときに一人で行ってきました。童門冬二氏の「立花宗茂」を読んで、ぜひ1度行ってみたいと思い、行ってきました。日本最古の城大野城の一角にあります。写真左は昭和30年に宗茂の父、高橋紹運の家臣の子孫が建てた石碑です。写真右は岩屋城本丸から見下ろす太宰府市の景色です。これを島津軍2万がとりかこんでいたのだな〜と思うと感慨深いものがありました。紹運は大友家に忠義を尽くすためよく戦ったな〜と思いました。宗茂はこのような立派な父の意思をよく受け継いだのだと思いました。立花城祉、柳川城にも行ってみたい。

 

高橋 紹運/高橋 鎮種(たかはし しょううん/たかはし しげたね、天文17年(1548年) - 天正14年7月27日(1586年9月10日))は、戦国時代の武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の息子で、立花宗茂の実父に当たる。妻は斎藤鎮実の妹(斎藤長実の娘、または鎮実の娘とも)。同じ大友氏配下の武将立花道雪に劣らぬ勇将であった。初名は吉弘 鎮理といい、のちに宗麟の命令で高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種と称した。戦国期の九州を代表する名将の一人として知られる。岩屋城と宝満城の2城を与えられた。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪の補佐役を務めながら筑前支配に貢献した。実子のない立花道雪から嫡男・統虎(後の立花宗茂)を立花家の養嗣子にと請われる。統虎は高橋家の大事な跡継ぎでありその優れた器量も見抜いていたことから最初は拒絶していたが、実の父のような存在である道雪の度重なる要請により遂にこれを受け入れた。

 

天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく2万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にし、岩屋城は陥落した。享年39。

 

 

伏見城模擬天守 京都市伏見区

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2010年7月19日に行って来ました。模擬天守です。当然中に入れるのかな〜と思いましたが、外周を見学できるだけで、立ち居り禁止でした。関が原の戦いの際、徳川方の守将、鳥居元忠が立て篭もりましたが石田方の攻めにより落城し、元忠一同自刃して果てたということもあり、何かいわく付なのかな〜と思い帰りました。また、京都出身の嫁の話によると昔遊園地があったような・・と聞き、気になって調べたところ、近鉄の運営する「伏見桃山城キャッスルランド」なる遊園地があったとのこと。しかし、経営悪化により近鉄が撤退したが京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与されたとのこと。そして中に入れない理由はなんと耐震基準をみたしていないからということでした(゜o゜)なんじゃそりゃ!現在は伏見桃山運動公園として整備されています。鳥居元忠らが自刃して果てた時の血の付いた床が天井として使われている養源院は京都国立博物館、三十三間堂の近くにあり、一度親父と行ったことありますが、血天井かなり不気味です。観光客も多く、寺院の方が詳しく説明してくれるので興味ある方は行って見てください。

 

最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため指月山に建設を始めた。このとき築かれたものを指月山伏見城、後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別された。伏見城の戦いで焼失した跡に1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされた。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。

 

月山富田城 島根県朝来市

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2008年4月30日山陰に一人旅行ってきました。石見銀山、出雲大社、境港のついでに行きました。 城跡、山中鹿之助像も見たかったのですが、茂みが深くへたれな僕は奥まで入って行けませんでした。 次回はぜひ行ってみたい。右は尼子経久像です。

 

月山富田城は尼子氏の居城。尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で出雲守護代。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家ともよばれる。尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。 京極氏の出雲守護代をつとめるも後に自らが守護となる。経久の時、山陰11州の太守となり最盛期を迎える。
弘治3年(1557年)に、大内氏の内紛後の混乱を制した毛利元就は、安芸から防長を手中にしたいわゆる戦国大名となり、やがて石見東部へ侵攻を始めた。晴久は石見銀山をめぐる戦いでは優勢であったが、永禄3年(1560年)に晴久が急死する。
晴久の跡を継いだ嫡男・義久は、この事態に際して将軍・足利義輝に和睦の仲介を依頼したものの、毛利元就はその後一方的にこれを破棄し、永禄5年(1562年)より出雲侵攻を本格化させた(第二次月山富田城の戦い)。義久は月山富田城に籠城し尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし永禄6年(1563年)に、元就は支城である白鹿城を攻略すると月山富田城を包囲して、兵糧攻めに持ち込んだ。同時に元就は謀略を開始し、疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼をも粛正してしまう。ついに永禄9年(1566年)11月、義久は降伏を余儀なくされ、ここに戦国大名尼子氏は滅亡した。
その後、尼子氏の遺臣である山中幸盛や立原久綱らは、尼子一族の尼子勝久を擁立して織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興した。しかし天正6年(1578年)に播磨上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、幸盛は誅殺されたため、尼子氏は完全に滅亡した。

 

 

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世界遺産石見銀山
その銀産出による富の覇権をめぐって大内、尼子、毛利により争われた

 

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出雲大社

姫路城 兵庫県姫路市

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天守とお堀
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2007年4月7日嫁(当時は彼女)と花見に行ってきました。あいにくの曇りでしたが桜は満開でした。城内には怪談で有名なお菊井戸があり、ちょっとしたホラーが楽しめます。お城に入る手前に広場があるので、そこで花見客の皆さんといっしょにお弁当を食べました。最近では彦ニャン人気にあやかり、城丸姫とかいうゆるキャラも登場したようです。

 

築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城説が有力である。室町時代の1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱で山名氏は細川氏と対立して力を弱め、細川方についた赤松氏が播磨を奪還した。
16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている。1573年(天正元年)まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。1576年(天正4年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。1580年(天正8年)、黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言した。江戸時代には姫路藩の藩庁として最初は池田氏、のち本多氏や酒井氏などの譜代大名が入城した。

 

 

我が福岡藩の藩祖となる黒田如水はこの地で出世のきっかけをつかんだようです。
姫路城に関連する本
播磨灘物語(司馬遼太郎)