宗像大社 福岡県宗像市

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2010年8月9日帰省したときに一人で行ってきました。台風の影響もあり、このあと局地的集中豪雨に合いました(ToT)宝物館の館長さんに、尊氏に関するものはありますか?と質問したところ一つだけありますと言われ「藍韋威肩白胴丸(あいかわおどしかたじろどうまる)」という尊氏が多々良川の戦いでの勝利のお礼として宗像家に奉納した鎧兜を見せていただきました。これで、中世の鎧は楠木正成と赤松円心のに続き3つめでしたがかなり保存状態も良いものでした。館長さんによると、他にも戦勝を祈願した尊氏のお手植えと伝わる神木や、白山麓の山田地蔵尊には武運長久を祈ったという尊氏座禅岩があるとのことです。また、宗像大社は天皇家との繋がりが深いため、尊氏は後醍醐天皇に弓を引いた逆賊ということであまり関わりのあるものを残しておきたくないという意向があったようです。本当はもっと尊氏に関するものがあったかもしれませんね。多々良川の戦いで尊氏に味方した人たちは、鎌倉倒幕に功があったのに、天皇からの恩賞に不満があった武士たち、もしくはこれからの天皇主導の政治に不安があった武士たちだったのかもしれないですね。
宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)。 日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、または宗像三女神を祀る神社の総本社である。「宗像大社」は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では辺津宮のみを指す場合も多い。3社にそれぞれ以下の神を祀り、宗像三女神(宗像三神)と総称する。
古くから海の神として信仰を集めてきたが、神功皇后が三韓征伐の際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれ、事あるごとに国に幣使を遣わす習いになったとされる。またこのエピソードからは航海安全の守護神として崇められるようになった経緯がうかがえる。現在では海上に限らず、陸上・交通安全の神としても信仰を集めている。その為、福岡県内では宗像大社のステッカーを貼った自動車が多数見受けられるほか、新車を購入した際に御祓いを受ける人も非常に多い。

 

建武3年(1336)足利尊氏は建武新政権に反旗を翻したが北畠顕家に敗れ、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受ける。そして白山城に入った。尊氏はここで武具等を与えられ、少弐家、宗像大宮司家の援軍を得て、北上してきた肥後菊池氏等の大軍を香椎多々良浜(福岡市東区)で迎え撃った。この戦いで奇跡的に勝ち、勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。同年5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、同年6月、京都を再び制圧した(延元の乱)。尊氏は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は同年11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とする。

白旗城跡 兵庫県赤穂郡上郡町

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2010年7月17日会社の同僚のF君と行って来ました。前日に梅雨が開け、グッドタイミングでした。足利尊氏に多大なる貢献をした赤松円心公が建てた山城です。新田義貞の兵6万を抑えたのですから、そりゃもう死力を尽くした壮絶な戦いだったんでしょうね。前のページを見ても分かるように、標高440mとそこそこ高い山でした。F君は趣味が登山であり、私も福岡時代、母に連れられてよく登山していたのでまあ大丈夫だろうとたかをくくっていました。ところが、山の入り口に行くと意味深な?看板(写真左)が掛けれた門があり(扉を開けれない人は登るなということか?)、不安を抱きつつ登っていくと、途中までは良かったのですが、中盤辺りから苔の生えた岩の連続。何度も足を取られながらハーハー言いながら登って行きました。もう湿度の高さとしんどさとで5回くらい休憩しました。最近趣味のマラソンもサボり気味なので明らかに体力が落ちている・・・(ToT)/死にそうになりながら、なんとか登頂に成功しました。いや〜この感動はF君がいたから共に味わうことができました。一人で行って喜んでたらただの危ない人みたいですもんね。頂上の本丸跡で眺めのいい景色を見つつ、車を停めた位置が見えたので改めて山の高さと登ってきたことに驚きました。そして下山をすることにし、登りの時苦戦した苔岩群を上から見てみるとやっと理解しました(写真右)。最初はこれがもともとの登山道と思っていましたが、これは明らかに土石流の跡ですよね。そういえば去年の今頃、佐用町で大雨による川の氾濫で大被害が出たのを思い出し、ガソリンスタンドの人の話でもこの辺でもまだ復旧してないとこがたくさんあると言ってたのを思い出しました。ということは結構危険なとこを登ってたんですね僕ら。あ〜恐ろしい。登山道にしては随分荒れてるな〜と思ってたんですよね。無事に帰ってこられたのも円心公のご加護があったのかな〜と思ってしまいました。

 

その他見所
宝林寺赤松三尊像、上月城、佐用町のホルモン焼きうどん「お多福」さん(お店のお姉さんがかわいかった(^o^))
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白旗城
白旗城(しろはたじょう、しらはたじょう)は、現在の兵庫県赤穂郡上郡町赤松にあったと言われている山城。「赤松氏城跡」の1つとして国の史跡に指定されている。室町時代に播磨国白旗山(標高440m)に築かれ、播磨守護赤松氏の居城となる。
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赤松円心
概要
築城期には二つの説があり、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)が護良親王(大塔宮)の綸旨を受け鎌倉幕府打倒の軍を挙げた時に築いたという説(1333年説)。もうひとつは、則村が幕府滅亡後に成立した建武政権から離反した足利尊氏に従い、宮方の新田義貞の西進を食い止めるために築いた説(1335年説)。赤松円心はこの城に籠もり、古典『太平記』に拠れば、東上する足利軍を迎え撃つ新田軍約六万を五十日あまりの間足止めさせ、湊川の戦いでの足利軍勝利に貢献したという。他にも諸説があるが、有力なのは1335年説である。1361年には、赤松則祐が南朝方の襲撃で京都を逃れた春王丸(足利義満)らを避難させたという。嘉吉元年(1441年)、赤松満祐は将軍義教を討つと白旗城で挙兵し幕軍に攻められて落城(嘉吉の乱)。
白旗城の曲輪と縄張は、本丸・二の丸・三の丸で形成されており、他にも馬場丸・侍屋敷等がある。三の丸の近くに、罪人を突き落とす「千人落とし」があり、本丸と三の丸の間に夏でも水の涸れることの無い「光火の井」があったが今ではもうかれて塞がれている。城へ上るには、赤松方面からは「ひばら谷(西)」「ふねが谷」を通り、鞍居方面からは「よね谷」「ひばら谷(東)」「くらの谷」「ぼう谷」「ひよごり」を通る。

湊川神社 兵庫県神戸市

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2010年6月12日梅雨入りする前にと思い、一人で行ってきました。兵庫県在住時に、車で行きました。神戸市にある神戸海軍操練所、諏訪山公園 海軍営の碑、勝海舟寓居跡、旧海軍操練所跡も一緒に行ってきました。神戸のハーバーランドからちょっと歩いたところにありました。湊川神社の前を走る大通りは楠木公の幼名にちなんで多聞(たもん)通りとなってました。宝物館には楠木公の鎧と兜が展示してありました。戦国時代のものは見たことあるけど、中世のものがかなりきれいな形で残っていたのは驚きました。ちょうど境内では結婚式が行われていました。それにしても想像していたよりも立派な神社でした。天皇に最後まで仕えて亡くなったということで、勤皇派の神のような存在の人で、幕末の頃、勤皇派であった吉田松陰、真木和泉、西郷隆盛も訪れたそうです。お墓はさすがに写真に収めるにははばかられますので撮らない主義にしています。お墓を立派にしたのはあの水戸黄門様(それに助さんのモデルとなった佐々介三郎宗淳さんという方)だったそうで驚きました。楠木公の物語ですが、戦前の教科書には必ずと言っていいほど取り上げられていたそうです。やはり、これから戦場に向かう若者の教育にとって、天皇のために戦い散った楠木公は良きお手本だったのではないかと考えてしまいます。しかし、天皇への忠誠というのは、朱子学が輸入された江戸期以降の知識階級には常識となったが、武士が武士の世を謳歌していた14世紀に、何の利害関係も無い1人の武士が勤皇のために戦を起こすというのはちょっと考えられないことのように思われます。私本太平記を読んでいるせいもあり、南河内の一豪族に過ぎない楠木公(争いを好まず領民と穏やかに過ごすことを好んだ)がひょんなことから天皇のために戦ったとはいえ、今の世の中でこのように祭り上げられているのは彼自身が一番びっくりしているのではないでしょうか。しかし当たり前ですが足利尊氏はひどい悪人のように扱われているのがかわいそうでした。
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楠木正成(くすのきまさしげ)

 

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は新政側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年には正一位を追贈された。

 

延元元年 / 建武3年(1336年)、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言する。だがこれは容認されず、次善の策として進言した、京都からの一時撤退も却下されてしまう。絶望的な状況下、義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川(兵庫県神戸市)で足利直義の軍と戦うが敗れ、弟の楠木正季と刺し違えて自害したとされる。法名は霊光寺大圓義龍卍堂。

 

息子である楠木正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、楠木正時、楠木正儀らも正成と同じく南朝方について戦った。

 

楠木正成(大楠公)の神霊を主祭神とし、子息の楠木正行(小楠公)および湊川の戦いで斃れた一族十六柱と菊池武吉の神霊を配祀。戦後になって大楠公夫人久子の神霊も合祀された。神社として創建されたのは比較的新しく、明治5年(1872年)のこと。神社創建以前から存在した墓所には、徳川光圀によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立されている。湊川の戦いで楠木正成が一族郎党と共に自害したとされる戦没地(異説あり)と、墓所の両方を境内地に含んでいる。

六波羅蜜寺 京都市東山区

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2010年5月4日
寺内には、空也像や平清盛像、清盛塚や源義経が戦に行く前に祈願したと言われる水掛地蔵がありました。亀岡市篠八幡宮を出発した足利尊氏軍はここの六波羅探題(北条仲時、北条時益)を目掛けて攻撃したようです。

 

六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。開基(創立者)は空也(くうや)。西国三十三箇所第17番札所。
歴史
踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。空也は応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の創建とする説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。
空也の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となった。平安末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれた。またのちに鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。
名称は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考えられている。 なお、六波羅密寺とする表記が古今多く見られるが、誤字である。

等持院 京都市北区

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2010年2月21日歴代足利将軍の木像を見てきました。幕末のころ、尊攘派過激浪士から天皇を敵に回した朝敵として尊氏、義詮、義満の木像の首が三条かわらに晒されたといういわくつきのものですね。切れた跡は見えなかったので別物なのかな?

 

等持院(とうじいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は万年山。足利尊氏の墓所としても知られる。
歴史
足利尊氏は、1341年(暦応4年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の1343年、現在の京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立した。尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。
霊光殿に安置されている足利歴代将軍木像
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足利尊氏像
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足利義詮像
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足利義満像

 

霊光殿に安置されている足利歴代将軍木像は、以下のとおりである。※歴代数は等持院のもので一般的な歴代数とは異なる。
向かって左側から           向かって右側から
・初代将軍:足利尊氏(等持院)  ・徳川家康(東照大権現)
・第2代将軍:足利義詮(寶篋院) ・第9代将軍:足利義尚(常徳院)
・第3代将軍:足利義満(鹿苑院) ・第11代将軍:足利義稙(恵林院)
・第4代将軍:足利義持(勝定院) ・第12代将軍:足利義澄(法住院)
・第6代将軍:足利義教(普広院) ・第13代将軍:足利義晴(萬松院)
・第7代将軍:足利義勝(慶雲院) ・第14代将軍:足利義輝(光源院)
・第8代将軍:足利義政(慈照院) ・第15代将軍:足利義昭(霊陽院)

 

家康像は、家康が42歳の時に厄落としの為にわざわざ作らせ、石清水八幡宮・宝蔵坊から移されたもの。足利歴代将軍ではないが、吉良氏・今川氏をはじめとする足利氏一族を高家として江戸幕府に取り立てた他、足利尊氏の三男である室町幕府初代鎌倉公方・足利基氏の子孫に下野国・喜連川藩5000石を与え、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名(喜連川家)に取り立てるなど、足利将軍家縁の者を重んじた。

篠村八幡宮 京都府亀岡市

2010年2月20日訪れました。
後醍醐天皇から名前を授かる前なのでこの時点では高氏である。
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旗立て楊(軍勢を集めるための目印とした。)
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矢塚(六波羅探題、鎌倉幕府打倒を祈願して一門緒将が矢を1本づつ積み重ねた。)
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元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は足利高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父貞氏の喪中であることを理由に動員を辞退したが許されなかった。『太平記』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとする。元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。天皇も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。翌年3月には後醍醐は隠岐島に配流された。
正慶2年/元弘3年(1333年)後醍醐は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。船上山の後醍醐を捕らえると見せかけて京都を出発。高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、同年4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、同年5月7日に六波羅探題を滅亡させた。関東では、同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。あらかじめ高氏と新田義貞の間に密約があったのではないかともされている。この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加している。一方で、高氏の庶長子竹若丸は脱出に失敗して殺害されている。

光明寺 兵庫県加東市

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2009年嫁と嫁の母と行ってきました。結構、勾配の急な坂で最初の登り道はしんどかったです。光明寺合戦本陣跡で足利の家紋を見たときは、いい感じにコケが生えていたので一瞬本物かと思ってしまいました。が、寺の人に聞いたところ、市の観光協会が置いて行ったが、いつしか忘れ去られたとのことでした。がっかり。そりゃそうですよね、本物だったら博物館か何かにもっと貴重に保管してありますよね。まったく紛らわしい。ちなみに直義方石塔氏の本陣だそうです。

 

光明寺(こうみょうじ)は兵庫県加東市にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は五峯山(ごぶさん)、本尊は千手観音。「播磨高野」とも呼ばれる真言宗七十五名刹の一つである。開基(創立者)は法道とされる。観応の擾乱の光明寺合戦の舞台として知られる。1351年には山内で足利尊氏・高師直の軍と、足利直義・石塔頼房・愛曽伊勢守の軍の合戦(光明寺合戦)があった。

金閣寺(鹿苑寺) 京都市北区

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2008年嫁と行きました。銀閣寺も同時に行きました。昔小さいころに親子旅行で来た以来だったので、その頃の記憶はあまりなく、改めて金閣寺の豪華絢爛さに驚かされました。さすが、室町時代最盛期をもたらした義満(尊氏の孫)だけありますね。長く続いた南北朝の争いを終結させた人です。とても一休さんに出てくるちょっと間の抜けた将軍様と同じ人物のように思えません。この来た日くらいは、ちょうど新型インフルエンザが流行した時期でマスクをされた観光客が多かったです。寺内にはお茶をいただけるところがあり大変風流でした。

 

鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名に因む。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。室町時代前期の北山文化を代表する建築で、1994年(平成6年)に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。

 

1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。1394年(応永元年)、義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を行っていた。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体されるが、義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。

天竜寺 京都嵐山

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2008年5月11日嫁と行きました。人生で初めて座禅を体験してきました。バシッとたたかれました。足利尊氏は後醍醐天皇のたたりを非常に恐れたようですね。多宝殿には後醍醐天皇像があり、敷地内の法堂には足利尊氏像がありました。この寺の表通りは湯豆腐屋等のお店も多くいつも観光客でにぎあっています。

 

天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている
歴史
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ、786年 - 850年)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。

大覚寺 京都市右京区

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大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。

 

寺の境内(大沢池など)では映画やテレビ(特に時代劇)などの撮影がよく行われている。

 

嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(こうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。

 

鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。