亀山城址 京都府亀岡市 

令和2年2月11日亀山城に行ってきました。

 

ここは100名城や続100名城ではないですが、なぜ訪れたかというと現在放送中のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀が丹波攻略の拠点とした城だからです。また、近くの最近できたサンガスタジアム京セラでは大河ドラマ館が開催されていたのでそこにも行きました。
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ここでは出演されている長谷川博己さん始め多くの方の撮影シーンと共に、人物紹介がされてありました。お土産品もたくさん売ってました。構成作家の池端俊策さんは以前の大河ドラマ太平記も担当されておられ、それがすごく良かったので今回も大変期待しています。
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亀山城近くの明智光秀公像
太陽を背に写真を撮ったら神秘的な雰囲気になりました。
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光秀は信長の命により丹波攻略を担当しましたが、信長の足利義昭追放による波多野氏の離反により一度は頓挫しました。しかし、態勢を立て直して天正5年10月攻め落とした亀山城を拠点に丹波攻略を再開しました。天正7年6月には八上城の波多野氏を、8月には黒井城の赤井氏を打ち倒し、ついに丹波を手中に納めたのです。
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復元された亀山城石垣
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大名たちが残した天下普請の刻印を見ることができる。
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復元された天守石垣。下から約3分の1は光秀築城当時の穴太積みが奇跡的に残っている。現在天守はありません。
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天守付近にそびえる大イチョウは光秀の手植えと伝えられるが、江戸中期に台風で倒れ、後継ぎに若木を植えたとの記憶が残る。

 

歴史的にはクーデターを起こしたことで有名な光秀ですが、滋賀県の坂本に引き続き、ここ亀岡でも善政をしいたことが伝わり、今でも地元の人達に慕われており毎年5月3日には亀岡光秀まつりが開催されています。

 

そのクーデターだが、天正10年この亀山城から光秀は本能寺に向けて出陣したという。近くの篠村八幡宮で光秀始め明智軍15000人が戦勝祈願した。そこは足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻し京の六波羅探題攻撃の前に訪れた場所であり、それにあやかったものと思われる。

 

芥川山城 大阪府高槻市 続100名城

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

令和2年1月3日今年の初城攻めをしてきました。前回の最後の城攻めが三好長慶の飯盛城だったので、今回はもう一つの拠点、大阪府高槻市の芥川山城に行きました。

 

以前時間の関係で断念しましたが、訪れて登山口は分かっていたので今回は迷わずに行けました。

 

しかし、ネットに載っていたこの地図に助けられました。
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この三好山の山頂が芥川山城なのですが、山の北側にある上の口の漁協組合駐車場に車を停めて、登城しました。大手筋ルートは登りにくいということでしてので、上の口ルートを選びました。最初は芥川沿いの細い登山道で子供たちを連れて行くのは崖になっている個所もありちょっと危なく感じました。まあそれでも30分くらいで山頂に到着することができました。

 

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竹藪に埋もれる石垣

 

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土橋と堀切と我が息子たち

 

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1553年に三好長慶はかつての主君、細川晴元側のこの芥川山城を落とし、入場し、摂津上郡の政治的拠点としました。(摂津下郡の拠点は越水城だった)これを契機に足利義輝、細川晴元を京都から追い出し、長慶の最盛期となっていきます。勢力圏は摂津を中心として山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨に及びました。その後、前回の飯盛城を拠点として大和の攻略を目指しました。

 

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頂上の本丸があったと思われる郭に三好長慶を祀った祠がありました。

 

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城山城とも呼ばれていました。

 

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頂上からは高槻市街が一望できます。京都から大阪方面が見渡せるので、軍の動きを見るには重要な位置であったことが分かります。

 

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芥川山城復元図
芥川と渓谷に囲まれた天然の要害です。

 

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芥川山城縄張り図

 

この日は天気も良く、気温も1月には珍しく暖かったので頂上では持参した弁当を息子たちと食べました。息子たちもピクニックを楽しんでくれて良かったです。

 

 

戦国大名三好長慶を知るにはこの一冊がお勧め

 

あなたも続100名城を訪れてみませんか?100名城スタンプの手帳付きです。

飯盛城 大阪府大東市 続100名城

令和元年11月4日にふと思いたって、城攻めをしてきました。

 

息子2人を連れて行きました。京都から高速道路使って1時間ほどのとこにある、大阪府大東市です。

 

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大東市役所前の三好長慶公

 

信長の少し前に近畿を制覇した戦国大名です。元々は足利将軍の管領細川晴元の家臣でしたが、十河一存や安宅冬康ら一族や松永弾正など有能な家臣を率いて下克上を果たしました。ここ飯盛城は長慶の後半の拠点であり、臨終を迎えた所でした。また続100名城にも選ばれました。
以前PS3の信長の野望を実際プレイしていくものをブログに載せましたか、その時だいぶ活躍してくれた武将です。

 

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虎口 入り口門の跡

 

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僕でも分かった土橋と堀切

 

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飯盛山頂上には楠木正行公の銅像があります。それにしても枝が邪魔だー

 

楠木正行は南北朝時代の南朝の武将です。あの東京皇居前にもある銅像でも有名な楠木正成さんの息子です。

 

父に負けず劣らず南朝のために戦いました。最後はこの辺りから出撃して、四條畷で北朝足利方の高師直と戦い亡くなりました。そして楠公寺へと葬られたので。

 

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飯盛山山頂の碑

 

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この山の東側は生駒山に繋がっており、長慶の次の攻略ポイントである大和に近いという利点がありました。

 

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頂上からは大阪市内が一望できます。逆光でほとんど見えないですね。北には京都の伏見が見えるとのことですが、これまた木が邪魔して見えませんでした。

 

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野面積みの石垣

 

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舗装された道路を降っていくと馬場跡に楠木正行公の菩提寺楠公寺があります。

 

長慶の前半の拠点、高槻市の芥川山城は以前近くまで行ったんですが、時間なく登山できず諦めたので次はそこに行ってみたいです。

 

子供たちもハイキングを楽しんでくれて良かったです。麓のキャンプ場の受付で城の縄張り図や登山方を丁寧に教えてくれたお姉さんがいて非常に助かりました。ありがとうございました。

 

岡城 大分県竹田市 100名城

令和元年5月4日私と父は竹田市の岡城に向けて九重町の筋湯温泉旅館を出発した。子供達を含めて家族は九重花公園に遊びに行くことにしました。こういう二手に分かれる別行動よくやってるんです。その方がみんなが楽しめるし、効率よく回れるので。

 

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岡城全体図

 

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大手門付近の石垣 関西の穴太衆を呼んで築城したようです。

 

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城代屋敷跡から三の丸跡付近を臨む
完全な崖になっていて、真下を見ると怖くて立ちすくみました。感じとしては兵庫県の竹田城に似ています。

 

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三の丸門

 

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三の丸跡付近から城代屋敷跡を臨む 現代に入っての補修工事の跡が見えます。

 

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本丸にある西洋化をいち早く取り入れた名将滝廉太郎・・・

 

ではなく、作曲家の滝廉太郎さんの像
12歳から14歳の間にここ竹田に住んでいた滝廉太郎は荒廃した岡城でよく遊んでおり、その時の情景を歌にしたものが、名曲荒城の月と言われています。

 

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廣瀬武夫像
岡城の麓に廣瀬武夫中佐を祀った廣瀬神社があります。日露戦争で活躍しました。司馬遼太郎氏の坂の上の雲にも登場する人物です。

 

豊臣秀吉による九州征伐後、播州三木から転封してきた中川秀成(中川清秀の次男)により城が整備されました。その前の大友氏一族の志賀親善の時、南から攻め上がる島津軍3万の攻めに耐えた堅城として知られています。

 

もう一つ驚くことは、この城まあまあ高いところにあるんですが、江戸末期の廃藩置県に至るまで政務が行われていたことです。通常山城は戦などの非常時に使われて、平時の政務は麓の屋敷で行うことが多い。

 

中川清秀といえば、先日行った高槻城の高山右近とは従兄弟にあたります。たまたま行ったこの2城にこんな繋がりがあるとは驚きでした。私の勉強不足によるものですが・・・

 

中川清秀は賤ヶ岳の戦いで討ち死にするキリシタン大名ですが、当然息子の秀成も洗礼を受けていたようです。

 

岡城の麓の城下町には禁教令からキリシタンを匿う洞窟礼拝堂もありました。

 

時間がなく、城下町は回れまなかったのが残念です。

 

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道の駅で買ったお土産のかぼす餅

 

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九重の牧場の牛乳から作られたヨーグルトリキュール

 

何か最近観光地で酒をよく買うなー

 

この後、家族たちと合流して昼ご飯を食べて福岡に帰りました。なかなか充実した大分旅行でした。

 

今回のツアーを段取ってくれた父親と一緒に来てくれた家族に感謝です。

 

府内城 大分県大分市 100名城

令和元年5月1日?5日まで、ゴールデンウィークで福岡に帰省しました。

 

そして、5月3日家族旅行で大分県に行きました。私の両親と妹と私家族全員で7人なんで車2台です。

 

まずは温泉県大分で有名な地獄巡りをしようと思いましたが、ゴールデンウィークのせいなのか観光客がとても多く駐車場に停められず断念することにしました。代わりに、うみたまごという水族館に行きました。アシカショーなどあり子供達も楽しんでくれました。

 

その後、府内城跡に行きました。前は城巡りによく付き合ってくれていた長男がなかなか着いてきてくれなくなりました??子供が興味を持ってくれるよう歴史を教えるのはなかなか難しいですね。

 

まあとりあえず元号が令和に変わって、記念すべき最初のお城レポートです。

 

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江戸時代の府内城下町

 

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現在の府内城周辺図

 

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大手門 現在外側は工事中です。

 

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天守台

 

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到着櫓

 

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人質櫓

 

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廊下橋
今は城中央部と松栄神社を繋いでいます。城内の堀が埋められる以前は西の丸と北の丸を繋ぐものでした。

 

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廊下橋内部  
床がはずせるようになっており、非常時に敵の侵入を阻む仕掛けとなっていたようです。

 

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二階櫓

 

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西ノ丸角櫓

 

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宗門櫓
安政大地震で壊れましたが、幕府の許可を得て再建されました。

 

1597年豊臣秀吉の命を受けた福原直高は荷落(におろし)と呼ばれていた河畔に築城しました。その後直高は荷落という地名を嫌い、荷揚(にあげ)に変え、荷揚げ城と称しました。しかし、福原氏は家康により改易されてしまいます。

 

その後入部した竹中重利は家康の許可を得て築城を再開し、1602年には大友時代の府内町を移転させました。1605年には城下町が完成し名を府内城と改められました。今では干拓や堀を埋めたため分かりませんが、当時は水に浮かぶ壮麗な城だったようです。

 

この近くに戦国時代に最大勢力を誇った大友氏の居館跡があったり、臼杵に大友宗麟の本城があったということなのでまたの機会に行ってみたいです。
この後、宿泊予定のちょっと離れた九重町の筋湯温泉の旅館に向けて出発しました。

 

高槻城 大阪府高槻市

久しぶりのお城取材です。

 

平成31年4月21日最初は続100名城の芥川山城に行こうと思って大阪府高槻市に来たのですが、時間の関係で登山は無理だと断念しまして、高槻城を見に行くことにしました。

 

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阪急高槻市駅を20分くらい歩くとしろあと歴史館という資料館があります。

 

現在侍アート刀剣、甲冑展が無料で開催されていましたのでついでに行きました。高槻城といえば信長時代に活躍した高山右近がゆうめいですね。右近はキリシタン大名としても知られています。西洋からの技術も取り入れていたようです。

 

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ランタカ砲

 

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高槻藩士の銃

 

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高槻藩士の兜
現在城の遺構で見学できるものはないということですが、二の丸跡で大規模な発掘調査をしているとのことでした。

 

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高山右近像

 

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城跡公園

 

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三の丸跡付近にある中学校の壁が城っぽく壁が作ってありました。

 

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城郭敷地内にある野見神社
右近期は天主教会堂があったようです。

 

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これは歴史館でもらった資料ですが、このように現在も発掘中のようです。

 

右近は荒木村重が織田信長から離反した時、村重に人質を取られているため共に離反しました。結局信長に屈し高槻城は開城します。その後は織田方として活躍します。その後明石に転封され、秀吉のバテレン追放令に反対し所領を没収されます。前田家に仕官しますが、今度は徳川幕府の禁教令により国外追放となります。マニラの地で亡くなったそうです。

 

高槻城は城主が様々変わっていますが、銅像があることからも右近が高槻で善政をしいてこの地で慕われていたのが分かります。

 

八幡山城 滋賀県近江八幡市 続100名城

平成30年11月29日に滋賀県近江八幡市にある八幡山城に行きました。久々に嫁と行きました。僕はあまり、情報を仕入れずに行ったため、どうせ山城で閑散として人も少ないだろうと高を括っていました。

 

ところが実際来てみると、八幡山の麓には和菓子屋のたねや、その系列の洋菓子屋クラブハリエそして、八幡山の麓には綺麗な城下町が広がっており、年齢層の高い来客が多く、帰る頃には駐車場がいっぱいになっていました。

 

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八幡山の麓には日牟禮(ひむれ)八幡宮が鎮座します。ここからロープウェイで山頂まで行きます。

 

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近江八幡城下町は縦横綺麗に整備されており、豊臣秀次時代の華やかさを偲ばせませす。

 

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麓はまだまばらだったものの山頂に着くと紅葉が

 

はっきりしていました。寒すぎず、いい気候でした。

 

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本丸の城跡

 

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天正13年豊臣秀次(秀吉の甥)がこの地を秀吉に与えられ、八幡山城を築きました。その後も秀吉を大いに助け天下統一に貢献し、秀吉の養子になり、関白にも就任しました。しかし、淀が秀頼(本当に秀吉の子か?は疑問)産んだのを契機に、その運命は暗転した。謀反の疑いをかけられ、最期には高野山で無念の自刃となりました。聚楽第にいた妻や妾、子供達は三条河原にて処刑となったのです。秀吉の晩年は狂気の沙汰のようなことばかりありますね。

 

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縄張り図

 

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本丸跡には村雲御所瑞龍寺が建っています。秀次公の母(秀吉の姉)、智は息子の菩提を弔うため京都にあった村雲御所をこの、八幡山城本丸跡に移築しました。後陽成天皇の認可も受けた高明なものです。大河ドラマ「真田丸」で秀次公を演じた新納慎也さんが訪れたようです。

 

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瑞龍寺内にある豊臣秀次像

 

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八幡山麓の「和でん」さんで、近江牛のすき焼き丼を食べました。美味しかった。

 

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秀次公の築いた八幡堀で船に乗ることもできます。映画「るろうに剣心」の撮影も行われました。

 

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八幡山山頂から安土城跡や観音寺城跡のある繖山も見えます。

 

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八幡山山頂から臨む琵琶湖

 

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八幡山何故か夜間ライトアップもやっており、西の丸に違和感大ありのモニュメント。 カップル誘致か

 

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最後は山頂に住んでる恥ずかしがりの猫さん

 

帰りに「たねや」でたこ焼きのようなつぶら餅を食べ、「クラブハリエ」でアップルパイ??を買い、地元の名物鮒寿司を買って帰りました大満足でした。

 

 

岡山城 岡山県岡山市 100名城

平成30年10月8日の連休に友人の結婚式が岡山であったので、式の翌日岡山城にいきました。JR岡山駅から路面電車で行くと早かったです。
築城したのは、宇喜多秀家。織豊系城郭特有の黒漆が塗られた外壁が、太陽光に照らされるとまるで烏(からす)の濡れ羽色によく似ているため「烏城」の別名があります。
戦時中に空襲で焼け落ちましたが、昭和41年に再建されました。

 

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天守

 

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宇喜多秀家は秀吉のアドバイスに従い、旭川の流れを付け替えて掘削した土砂を盛り上げてて岡山城の土台としました。こうして東側の外堀を作り、西の毛利に対する備えの城となったのです。この工事でできた中洲部分を江戸時代に後楽園が作られました。

 

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大手門を抜けると右側に月見櫓があります。江戸時代に入ると使者との謁見の間に使われましたが、元は外敵に備えた防御施設です。

 

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内部ですが、読んで字の如くのものがあります。小さな石ころが置いてありますが、アリンコでも攻撃するんですかね?

 

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2階に登るとまた読んで字の如くのものがありました。これ低い位置にあってかがんで入りましたが、階段で段差があり、人が5?6人入れるスペースがありました。

 

櫓を出た後、早速天守に登ってみました。中にエレベーターありましたが、混んでたので階段で登りました。今日はイベントがあっていたので、とにかく人が多かった??

 

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城主の間がありました。
宇喜多秀家が関ヶ原で西軍につき、敗北した後、宇喜多家は断絶、小早川秀秋そして池田氏が入り明治維新まで続きました。姫路城の池田氏と同じ系統ですね。

 

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宇喜多秀家家臣の花房正成の鎧

 

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宇喜多秀家の父、直家です。以前のブログで宇喜多の捨て嫁という小説を紹介しましたが、その中での主人公です。直家は天神山城を拠点とする浦上宗景の家臣でした。

 

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正子公也氏が書いた宇喜多直家親子です。正子さんの絵どこかで見たことあるな?と思ったら、歴史人という雑誌で見たことがあります。小説の中でも直家はこの般若の面を被って戦に出ていたと書かれていました。すごくリアルです。

 

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直家は浦上家中にあって婚姻や暗殺、時には力攻めで頭角を現していき、ついには主君を追い出し備前を統一しました。当時拠点としていた沼城から、金光氏を滅ぼして奪った石山城に本拠を移しました。ここを山陽道の要所として城下町を整備しました。そして病で亡くなり、息子秀家へと受け継がれます。

 

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秀家は秀吉に大変かわいがられ、養子となりました。そして石山城の近くに岡山城を築城しました。紀州攻め、小田原攻め、九州攻め、朝鮮出兵で活躍し秀吉の信頼を揺るぎないもにしました。父の遺領のほか、備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となりました。そして年若くして参議従三位という異例の出世をとげ、備前宰相と呼ばれました。また五大老の一人にもなりました。まさに人生の絶頂期です。

 

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しかし、秀吉の死後、関ヶ原の戦いが始まると石田三成方の西軍につき敗軍の将となりました。逃亡の末、捕縛され、八丈島に遠島の刑になりました。長命であり84歳まで生きたと言われています。まさにジェットコースターのような波乱万丈の人生ですね。

 

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城巡りしていて初めてですが、城内に喫茶店があったので、岡山といえばこのフルーツということで葡萄とももの????パフェを食べました。非常に美味でした。最近始めたインスタにももちろんアップしました。宇喜多秀家も食べたとか食べてないとか。

 

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もちろん日本三名園の一つ、後楽園も行きましたよ。池田綱政が作ったと言われています。東京の後楽園とごっちゃになりますよね。非常に広く、園内で米とか茶とかも作ってました。

 

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ここでは特に僕の胸を撃つお土産は売ってなかったので、岡山駅で買うことにしました。友人から聞いて、ままかりという魚と調布というお菓子がおいしいということで買いました。後はやはり桃太郎さんで有名な吉備団子そしてマスカット酒を買いました。吉備団子で息子たちをお供につけて鬼嫁をやっつけたいと思います??

 

出石城 兵庫県豊岡市 続100名城

平成30年9月16日竹田城跡に続いて、車を走らせ、近くの出石まで行きました。兵庫県豊岡市です。
出石城は有子山城とともに続100名城に選ばれました。

 

今回はここに着いた時点で15時くらいで、なかなか疲れていて時間も厳しくなっていたので有子山城は断念しました。

 

有子山城は山名氏の居城でしたが、羽柴秀吉により落とされたあと、弟秀長により、石垣の城へと改修されました。その後、小出氏が引き継ぐが、一国一城令により廃城。有子山の麓に出石城を築きそこに移る。小出氏9代続くも、無嗣子のため断絶。その後、仙石政明が信州より国替えにより入部。初代権兵衛から数えて4代目であった。そのまま仙石氏が続き明治維新を迎える。
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大手門と登城橋

 

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正門の石垣

 

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二の丸跡

 

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お城坂。この鳥居道を山頂まで登ると有子山城があります。

 

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本丸跡

 

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感応殿。仙石氏初代権兵衛を祀ったお堂です。

 

宮下英樹さんのセンゴクおもしろいですね。戦国史上最も返り咲いた男と言われています。古くから秀吉に仕えていました。四国攻めなどに活躍しましたが、九州島津攻めで失敗を犯し、一旦改易となります。しかし、小田原攻めで奮戦し、信州小諸城主として返り咲きします。

 

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三の丸跡

 

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出石城の裏側に佇む有子山。この上に城跡があります。

 

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出石城の堀には鯉がたくさん。

 

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出石のシンボル時計台ではなく、振鼓楼
1日に2回太鼓により太鼓の音にて時を告げている。
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仙石家老屋敷
その前には仙石権兵衛の顔出しパネルが!
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出石の街並みは風情があり、その街並みは小京都と呼ばれます。いつ来ても家族やカップル達で賑わっています。
やっぱり最後は名物出石皿そばを食べて帰りました。このお蕎麦は仙石氏が信州より移ってくる時に、蕎麦職人を一緒に連れてきたことで広まったと言われています。やはり、お水が綺麗なところではそばや日本酒が格別です。お腹いっぱいで眠くなりながらも、何とか頑張って運転して帰りました。

 

竹田城 兵庫県朝来市 100名城

平成30年9月16日17日と連休だったので、それを利用して遠出しました。ず?と行きたいと思って行けてなかった、100名城の内、関西14個の最後、竹田城跡に行きました。京都から縦貫道を使って、福知山で降り、そこから下道で兵庫県朝来市(あさごし)に入り、JR竹田駅のすぐそばです。

 

いわゆる話題にもなっている、天空の城ですが、10月ころの、朝6時から8時半ころに見られる景観だそうです。ちょっと季節的に早かったし到着もだいぶ遅かったので、それは見れませんでした。見たい方は挑戦してみてください。

 

現在道路の具合が悪く一部、通行止め区間があり、僕らは竹田駅前の駐車場に止めてタクシーで城近くまで行き、少しだけ歩くという最短ルートで登りました。

 

この城は室町時代の山陰の雄、山名宗全の家臣、太田垣氏の居城でしたが、戦国時代に入り、木下藤吉郎により攻められます。弟、秀長により再び攻められて、太田垣氏は滅亡。その後、桑山氏、そして赤松広秀が城主になる。

 

赤松広秀は関ヶ原では西軍に着くが、家康に許され、鳥取城攻めに参加。その際、大火の責任を問われ自刃。竹田城は廃城となる。生野代官所支配下になる。

 

現在の石垣は赤松広秀時代のものと言われている。
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入り口付近です。穴太積みの石垣

 

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三の丸

 

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二の丸

 

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本丸から南千畳を臨む

 

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算木積みの石垣

 

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こんな標識初めて見ました。やっぱりドローンつかう人最近いるんですねー僕もいつか買いたいな
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竹田の街並み

 

この街道に秀吉軍がひしめいていたんでしょうね

 

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南二の丸

 

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南千畳
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竹田城跡の縄張り図
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竹田城跡の兵庫県における位置
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山城の郷でお土産を買いました。丹波の山田錦を使った日本酒と但馬牛入りのせんべいと本をよく読むので竹で出来たしおりです。

 

まあまあ歩いたので疲れたのですが、日帰りのため、急いで出石に向かうことにしました。