多気北畠氏城館跡、田丸城 続日本100名城 三重県
令和7年7月7日に連休があったので、ふと思いたって三重県の2つの続日本100名城に取材してきました。
福井県とどちらに行こうか迷ったんですが、去年福井(敦賀城跡、北ノ庄城跡)に行ったので、今回はこちらにしました。
あと、南北朝時代に関して、北畠氏に関わる大阪南部の旅をしたので、三重県の北畠氏に関わる史跡に行きたいと思いました。

多気北畠氏城館跡は1342年に南朝重臣北畠親房(ちかふさ)の3男である顕能(あきよし)が伊勢国司になり霧山城を作ると、その麓に城館を建てたところです。
庭園は第7代国司北畠晴具(はるとも)の時に義父、細川高国によって作られました。
第8代北畠具教(とものり)の時に、織田信長により謀殺され北畠家は滅亡し、伊勢は信長の支配下に入りました。
明治になってからここ城館跡が建武中興15社の1つ別格官幣社北畠神社となりました。顕能とともに父の親房、兄の顕家を祀っています。

本殿

北畠顕家公像
大阪の阿倍野神社と全く同じに見えます。顕能にとってはお兄さんですね。

石垣
城館跡の発掘調査から多くの石垣が出土しました。

庭園
北畠晴具の義父、細川高国により作られた。入場に300円かかります。

庭園
米字池と呼ばれる池泉は複雑な形をなし、屈曲する護岸石組みは豪快で力強く、東側には高さ約2メートルの須弥山石を中心にした渦巻式の立石枯山水が組まれています。築山には樹齢400年以上の巨樹が聳え、しっかりと大自然と調和しつつ、しかも質実剛健、武将好みの男性的な庭園です。

多気北畠氏城館と霧山城の位置相関図

航空撮影図

北畠顕家公御朱印
令和7年7月7日のスリーセブンとは縁起がいいです。この御朱印、阿倍野神社と東北の霊山神社にもあるようです。

霧山城御城印
築城年は分かるが、落城年まで馬鹿正直に書く必要があるのだろうか?潔いとは思うが。
めちゃくちゃ暑く湿度も高いし、近くに泊まるわけでもなく帰りも時間がかかるので霧山城登山はあきらめました。多気北畠氏城館跡にたどり着くまで道の細い峠を越えるのがしんどかったです。もしかしたらもっと楽に行けるルートがあったかもしれません。あと周辺にコンビニが少なかったのでトイレは要注意です。
次に田丸城に向かいました。車でここから1時間の距離でした。度会郡玉城町というところにあります。

富士見門
田丸城が廃城になった明治維新の当時、場内には8つの門が残されていました。富士見門は江戸中期に建てられたもので、現在も当時の原型をとどめています。かつては門の両側に長屋が付いていたことから長屋門とよばれました。

北の丸石垣

三の丸跡は玉城中学校になっています。

北の丸横矢がけ

駐車場あたりから見る石垣

北の丸石垣

本丸石垣

富士見台跡

本丸門跡
紫陽花が咲いていました。

天守跡
天守台は本丸の北端部に位置しています。内部には穴蔵をもつ古い形式のもので、南側には付櫓が付属していました。

天守から見渡せる風景
吉野方面を望む

続日本100名城スタンプと御城印を求めに近くの村山龍平記念館に行きました。ちなみに村山龍平さんとは朝日新聞の創設者だそうです。

田丸城御城印 伊勢和紙に夏バージョンの絵柄です。
田丸城は1336年北畠親房により南朝拠点として築城されました。北畠氏が信長により滅んでから、信長の次男信雄が入り城を改築しました。その後多くの城主が入りますが、紀州徳川藩ができると家老である久野宗成(くのむねなり)の城となった。以後明治維新まで久野氏が治めた。
伊勢国司北畠氏は9代234年栄華を誇りました。南北朝時代に南朝の反足利軍の中心となって戦ったのにこれほど栄えた家はないのでないでしょうか。新田氏も楠木氏も仁和氏もみな没落しました。足利義満の時の南北朝合一でも取り潰されなかったということは、北朝に降伏して軍門に降り、そして幕府に重用されたということなのでしょう。他の武家と違い元は公家だったということもその理由かもしれません。
この辺りは先ほどの多気北畠氏城館跡の山中とは違い、太平洋側の市街地です。だいぶ京都から遠かったですが、高速道路を使い車の自動運転機能にめちゃめちゃ助けられました。非常に暑い季節でしたが楽しい旅ができました。
アップデート 令和8年2月1日
立花山城 福岡県粕屋郡新宮町
令和7年5月4日去年末行く予定だった福岡県糟屋郡新宮町の立花山城行ってきました。今回はどんたくには行けませんでした。どんたくで柳川の立花武将隊見たかったなー
NHKの「歴史探偵」にご当地戦国武将として立花宗茂も取り上げられており嬉しかったです。本当は去年末に行く予定でしたが、出発直前にインフルエンザにかかってしまい、泣く泣く帰省自体を取り止めにしました。
今回のゴールデンウィークは1人での帰省でして、登山が趣味の母と一緒に登りました。

登山道の入り口辺りでヤギさんが出迎えてくれました。

母はまあまあな年なのですが長年登山で鍛えているので軽やかです。

石垣ルートを歩くとこのような石垣が見えてきます。

石垣

石垣

頂上に到着です。標高367メートルです。45分?1時間ほどで登れます。

本丸跡からは博多の町を見下ろすいい景色が見れました。

故 香川元太郎さんによる立花山城図です。
元徳2年(1330)大友貞載が貿易港博多を支配する筑前拠点として築城しました。その後250年間にわたる数々の攻防戦の末、元亀2年(1571)戸次鑑連(べっきあきつら)(立花道雪)が城主となりました。天正9年(1581)岩屋城主高橋紹運(じょううん)の子、統虎(むねとら)を養子として娘ァ千代(ぎんちよ)に嫁がせました。統虎(宗茂)は道雪亡き後、立花城主となりました。

馬責め場
立花ァ千代姫率いる女子隊の射撃練習場所

大友氏は上図のような最大版図を誇っていた。しかし耳川の戦いで大友氏が島津氏に敗れ、さらに沖田畷の戦いで島津氏に龍造寺氏が敗れると、島津氏の九州制覇は目前に迫っていた。
立花山城は天正15年(1586)立花宗茂が篭り、島津軍をなんとか防ぎ、その九州統一を阻んだ城です。豊後大友軍のまさに最後の砦でした。(ちなみにこの少し前に宗茂の父、高橋紹運(吉弘鎮理)は太宰府の岩屋城で島津軍相手に玉砕しました。)大友宗麟が自ら請うた豊臣秀吉の九州征討軍に助けられました。
その後、立花山城は小早川隆景が管轄しましたが、慶長5年(1600)には黒田長政が筑前に移り、福岡城を築き、翌年立花山城は廃城となりました。

宗茂の義父、立花道雪(とその母と家臣の薦野増時)の墓がある梅岳寺に詣ってきました。



道雪が戦勝祈願した六所神社にも詣ってきました。

やっと甘味処戦国や立花館に行けました。立花家家紋入りの御城印は売り切れでなく、残念ながら購入できませんでしたが御城印を購入しました。
ゴールデンウィークとあってか登山客多かったです。

博多どんたくでパレードする柳川武将隊(ァ千代姫と立花宗茂)Xより引用

去年の大阪お城フェスで購入した立花ァ千代の武将印
立花ァ千代は立花道雪の娘である。跡取りのいない道雪に立花城主を命じられた。高橋統虎を婿とした。立花城では女子隊を率い鉄砲の訓練をした馬責め場が伝わる。関ヶ原の戦いの際は、不在の宗茂(統虎)に代わって柳川城を守った。関ヶ原の戦い後、立花氏は改易になり熊本に住むが、34歳のとき病死した。なお宗茂との間に子はできなかった。

墨絵師御歌頭さんによる立花道雪の武将印
立花道雪はまたの名を戸次鑑連(べっきあきつら)と言い、大友三宿老の一人である。大友家の北部九州での戦いで活躍した。雷にうたれて立てなくなると輿に乗って戦った。娘のァ千代の婿として、同じ大友家臣である高橋紹運の息子、宗茂を養子とした。
令和7年10月5日アップ
大阪南部の旅 戦国時代
令和7年4月21日に再び大阪南部を取材してきました。以前、北畠顕家関連の史跡を見てきた時にGoogleマップを見て、近くにあったぜひとも行っておきたいと思ったところです。南海トラフもいつ来るか分からないので早めに攻めておこうと考えました。
まずは天王寺まで来て、茶臼山に行きました。大阪冬の陣では徳川家康の本陣、夏の陣では真田幸村の本陣になったところです。

河底池から茶臼山を見ると小高い山であるのが分かります。この池が外堀の役割をしていたと思われる。

茶臼山の山頂 わずか標高26メートル
当日は平日にも関わらず人が多かったです

大阪冬の陣で、真田幸村ら豊臣軍は真田丸で奮戦するも家康有利の講和で終わりました。外堀は埋められ櫓は壊され、大阪城は丸裸同然になりました。
そんな講和も簡単に破られ、夏の陣では豊臣方55000人に対して徳川軍は155000人と相対することになりました。最後まで豊臣方に付き従う真田幸村らは籠城しても援軍は見込めないと寡兵ながら打って出ることにしました。幸村は最後まで家康を苦しめ、家康に「日の本一の兵(つわもの)」と賞賛されました。

黒田藩蔵屋敷長屋門
大阪は豊臣が滅んだ後、徳川家直轄地となりました。天下の台所と言われ、多くの各藩屋敷がありました。

天王寺駅付近から見える大阪のシンボル通天閣

天王寺駅付近から見えるあべのハルカス
この後、昼ご飯を食べて、堺市に向かいました。
南宗寺
1557年に三好長慶が父の菩提を弔うために、大林和尚を開基として創建しました。
最初の南宗寺はこことは少し違うところにあり、大阪の陣にて焼失しました。
1619年に当時の住職沢庵和尚と堺奉行喜多見勝重により、この場所に復興されました。

三好長慶像
三好長慶は織田信長よりも20数年前に堺を拠点に畿内など13ヵ国を治めました。堺の町は三好一族により繁栄をもたらされました。境内には三好一族(元長、長慶、義賢、十河一存)の供養塔があります。

甘露門

いいですねーぜひ大河ドラマやってほしいです。
以前ゲームの「信長の野望」で使ったことあります。主君細川晴元に下剋上した武将です。家臣に松永久秀がいました。

唐門
屋根瓦の紋所は徳川家の三葉葵です。この奥に以前は東照宮がありました。

東照宮は太平洋戦争時の空襲により燃えて現在は土台だけが残っています。昭和に入ってその土台の上に徳川家康の墓碑が建てられました。このさらに奥に伝説の家康の墓と呼ばれるものもありました。
家康が大坂夏の陣で亡くなった説の根拠になっています。夏の陣で真田幸村(もしくは後藤又兵衛)による急襲を受けた家康は重傷を負い、這々の体で逃げますがこの辺りで生き絶えたと伝わります。その後数年は影武者がその役目を務めました。ここに墓と東照宮が建てられ徳川秀忠、家光も詣っています。しかし、日光東照宮が建てられるやいなや将軍の参詣もぱたりとなくなりました。(遺骨を移したのか?)
ですが、この東照宮には歴代大阪奉行が参詣に来たと伝わります。
この寺には他にも、枯山水の石庭や天井に龍が描かれた仏殿、千利休一門の墓や茶室もありました。ボランティアの方がすごく丁寧に説明してくれました。ありがとうございます。
少し電車で移動しました。
千利休屋敷跡
千利休は豊臣秀吉に仕えた茶人です。千宗易とも言われます。堺で生まれ、若くして茶道を志し、独自の茶の湯文化を生み出しました。

茶の湯は当時の政治家から公家まで流行り、秀吉政権でも利休は重宝されるようになります。また茶道具は信長が家臣に送る高価な品となり、武将たちはこぞって収集しました。また利休は多くの弟子をもったので、秀吉の家臣たちから多くの情報を得ていたようです。弟の豊臣秀長とともに諸将たちの秀吉への取次役も行いました。
しかし、晩年は秀吉との仲が険悪になっていき切腹させられました。理由は様々考えられますが、朝鮮出兵に反対しただとか、大徳寺山門に自分の像を作って置いただとか、はたまた利休をよく思わない石田三成による讒言だとか言われています。秀吉の唯一の歯止め役だった秀長の死も大きかったのではないでしょうか。
再び電車で少し移動しました。
鉄砲鍛治屋敷(井上関右衛門家住宅)
堺といえば鉄砲の町ということなのでやってきました。全国で唯一残る江戸時代の鉄砲鍛冶の作業場兼住居です。

銃身

井上家内部

庭

みせの間
商談を行っていた。多くの藩の御用達だったようです。江戸時代でも各藩は有事に備えて銃を所持していました。

火縄銃

鍛冶場
井上家は江戸時代に入ってからの鉄砲鍛冶屋敷ですが、ポルトガルから鹿児島の種子島に火縄銃が伝わって以降、戦国時代には堺にこのような鉄砲鍛冶が多くあったと思われます。織田信長はそこにいち早く目をつけ堺の統治権を足利義昭から得ました。信長が銃も港湾都市の重要性も熟知していたことをうかがわせます。
アップデート令和7年9月1日
大溝城跡 滋賀県高島市
令和7年2月26日に時間を持て余していたので妻と短時間でふらっと行けるところはないかと思い、以前福井県に行った時、通った湖西道路沿いにある大溝城に行ってきました。JR近江高島駅近くの駐車場に車を停めて、まずは総門に向かいました。

総門(大溝陣屋遺跡)
江戸時代に入ってきた分部氏によって整備された武家屋敷地の正門です。大溝陣屋関連で唯一現存する貴重な建造物で市指定文化財。この門をくぐって左側が資料館になっています。大溝城の歴史が分かるビデオが流れています。右側は観光案内とお土産屋があります。湧水で淹れた美味しいコーヒーもいただけます。この門より西側は武家地で東側は町人地でした。

大溝藩初代藩主分部光信の甲冑と具足

大溝城跡出土瓦
天正13年に大溝城は取り壊され、その部材は甲賀郡の水口岡山城に移されたと伝えられます。

大溝城再現CG
現在は埋め立てられ当時の面影を残す程度ですが、琵琶湖の内湖を利用した水城でした。

大溝藩初代藩主分部光信

町割り水路
飲用、防火用の生活用水路です。昔はこの用水路に琵琶湖の魚がたくさん上がってきたそうです。高島市は昔から水が豊富で山水(日吉山水系)や湧水の古式水道が生活に利用されてきました。

武家屋敷跡(笠井家)
伊勢から入った分部氏とともに入ってきた家臣団の屋敷跡。明治維新後、多くの家臣が大溝を離れたので、笠井家は現在残る数少ない一軒である。
JR近江高島駅前に戻ってきました。

JR近江高島駅前のガリバー像
大溝藩に貢献したガリバー氏・・・ではなく高島町時代にガリバーチャレンジタウンを合言葉にまちづくりが行われたようです。その縁でガリバー旅行記の作者の故郷アイルランドとも交流が行われました。
高島市民病院の向こう側にある大溝城に向かいました。前日の寒波で降った雪がまだまだ残っています。

大溝城跡碑

大溝城の石垣
大溝城は天正6年(1578)に織田信長の甥である織田信澄(津田信澄)によって築城されました。設計は信澄の義父である明智光秀が行いました。このことは初めて知りました。

大溝城と光秀の坂本城とは南北で隣り合っています。光秀は建前としては信長のためと言いながらも、自分の娘とその婿である信澄のためを思って設計したのではないでしょうか。前のブログでも書きましたが光秀にとってこの信澄はキーマンだったように思います。

大溝城は長浜城、安土城、坂本城とともに琵琶湖4城としてネットワークを形成し、交通水運をになっていました。

大溝城の石垣
明智光秀の謀反により、信澄はその関係を疑われて大阪城にて丹羽長秀に殺害されました。その後、何人か城主が代わり、江戸時代に分部氏が入ってきます。

大溝城天守台跡

乙女ケ池
大溝城が水城であった名残が見えます。

総門の売店で御城印を購入しました。お城カードもいただきました。

総門の売店で高島市の銘酒、萩の露という日本酒の甘酒飴を購入しました。
また、近くの道の駅「藤樹の里あどがわ」で高島市の推しであるアドベリージュースとクラフト酎ハイを購入しました。美味しかったです。

近くに白髭神社があります。お昼を「白ひげ十割そば」さんでいただきました。

近江牛の乗ったそばと炙りサバ寿司を食べました。めっちゃ美味しかった。
大溝城は琵琶湖4城の中では1番マイナーなお城で、実際私が知ったのも最近なのですが、明智光秀とのつながりをもっとアピールしていけば、もっと大勢の歴史ファンが訪れるのではないかと思いました。
アップデート令和7年7月5日
本能寺の変?山崎(天王山)の戦いに関する史跡
令和7年1月2日に京都市中京区の本能寺を訪れました。前から行こうかと思っていたのですが、ちょうど光秀に関する小説を読み終わったところだったのでタイミングが良かったです。地下鉄京都市役所前駅で降りるとすぐあります。
みなさんご存知の「本能寺の変」の本能寺です。が、明智光秀が攻めて織田信長を討った当時の本能寺とは違う位置にあります。当時の本能寺が焼失したため、豊臣秀吉により現在地に再建され、織田信長の大々的な法要が行われました。さすが秀吉、パフォーマンスで右に出るものはいません。

本能寺正門

信長の廟所となっています。本能寺の能の字は右側がヒヒでは不吉だということで石碑のような漢字を書くようになったようです。

本能寺本殿
ここには信長所用の短刀、薬研藤四郎、実休光忠の復元刀が展示しているようです。

織田信長公廟

信長に従って、明智軍との戦闘で亡くなった方々。森蘭丸をはじめ小姓衆かと思われる子供のような名前がみられます。

天正10年(1582)6月2日信長が京における宿泊所としていて、光秀に討たれた本能寺跡です。現在では老人ホームが建っている辺りに石碑があります。しかし、供回りは小姓衆を中心とする100名前後とほぼ無警戒な状態でした。
中国地方の毛利攻めをする羽柴秀吉の援軍を命じられた光秀は、亀山城にて美濃衆、近畿衆、丹波衆を中心とする1万5000人で出撃し、西へ向かうべきところを東の京へと向かった。信長襲撃は中心となる側近だけに伝えており、多くの家臣は知らなかった。家臣の中には徳川家康を討つのではないかと考える者もいた。

当時の本能寺は東西150メートル、南北300メートルあり大きな堀と塀もあり寺というより砦のような様相を呈していた。

現在の本能寺(右上)と当時の本能寺(左下)の位置はだいぶ離れているのが分かりますね。

妙覚寺
この妙覚寺は信長が上洛した際に1番多く泊まった場所ですが、本能寺の変の際に信長の嫡男の織田信忠が立て篭もり、明智軍に攻められ信忠は討死し焼失しました。その後、秀吉により再建されました。この妙覚寺の表門は、聚楽第の裏門を移築したものです。

令和7年1月3日に山崎(天王山)の戦いに関する史跡を訪れました。
まずは、京都府長岡京市にある光秀が本陣としたと伝わる恵解山古墳(いげのやまこふん)です。光秀の三女玉子(後のガラシャ)と細川忠興が祝言をあげた勝龍寺城より少し南下したあたりにあります。天正10年(1582)6月13日に山崎の戦いは起きました。本能寺の変後、わずか11日後には決戦となったわけです。この間光秀は、朝廷工作、近畿方面与力への工作、安土城をはじめとした近江の城の攻略を行いました。この朝廷工作の失敗、近畿方面与力への工作の失敗が秀吉への敗北に繋がったように思えてなりません。

古墳時代中期に築造された全長約128メートルの前方後円墳です。

復元された土器が並んでいます。

先日あった磯田先生の番組で、ここから山崎合戦当時の銃弾が発見されたとも、堀が見つかったとも言われていました。

古墳の頂上部から天王山方面を望みます。サントリーの工場が見えますね。水がきれいなので酒造りには適しているようです。「山崎」というウイスキーを作る工場もあります。

少し移動して山崎の戦い古戦場跡に来ました。名神高速大山崎インターあたりです。小泉川をはさんで北側に光秀軍15000人、南側に備中高松城を水攻めして城主清水宗治を切腹させ、毛利と講和し大返しで戻ってきた秀吉軍40000人(諸説あり)が布陣しました。この辺りが激戦地になったようです。
JR大山崎駅を通過して、麓に車を停め、天王山を登山することにしました。

ちょっとなめていましたが、意外にもしんどい登山となりました。明日筋肉痛くるだろうな〜

中腹辺りに山崎合戦之地碑があります。秀吉はここに黒田官兵衛と弟秀長をおきました。
なぜ京に近い光秀がこの地を抑えられなかったのかが腑に落ちません。

旗立松。秀吉が天王山の松の木に自ら旗を掲げ、山麓で戦う味方の軍勢を鼓舞したといいます。この逸話は同時代史料に残っておらず伝承の域を出ません。松枯れの度に新しく植樹され現在は6または7代目と言われている。

山崎の戦い、光秀、秀吉の布陣図
そして、数でおとる光秀軍がなぜこのような不利な位置に布陣にしたのか解せないのです。戦上手であったはずなのに。少数であれば、隘路に誘い込むとか伏兵をひそますなど手立てがあったろうに。兵法を熟知したものらしからぬ戦いとしか思えません。秀吉は楽な戦いだったことだろう、力押しにただ前進するだけでいいのだから。

天王山旗立松あたりから両軍が布陣したあたりを望む
官兵衛や秀長はここからは明智軍の動きが手に取るように分かったであろう。

山崎合戦の図 図岩井弘、作堺屋太一
歴史にifはないが、もし光秀軍が勝つとしたら・・・
@正親町天皇の信長討伐の綸旨と錦の御旗をもらい官軍となることは必須と思います。要するに信長の横暴は誰の目にも明らかであったので光秀による私的単独行動としないこと。
A細川親子は無理としても、高山右近、中川清秀、筒井順慶ら近畿の与力たちからことを起こす前に人質を取っておき必ず味方につけておく。
B大阪城の津田信澄(織田信行の息子で光秀の娘婿)を秘密裏に脱出させ、保護して、次の旗頭にする。
C秀吉との戦いは避けられないだろうから、もし場所も同じ山崎なら天王山は必ず先に占拠しておく。
D大将は天皇から公家の誰かを任命してもらい、錦の御旗を全面に立てて、光秀軍が官軍と秀吉軍がそれにはむかう賊軍というアピールを行う。光秀対秀吉の私戦としたら立場が悪すぎる(石田三成対徳川家康のように)ので官軍対秀吉の形に持っていく。
この辺りが必要になってくると思う。もし秀吉に勝ったとしても、その後他の織田家臣団との戦いは避けられないだろうがいくらかは有利に戦えるだろう。

禁門の変 天王山十七烈士の墓
幕末に禁門の変時に挙兵するも幕軍に鎮圧され切腹した真木和泉をはじめとする長州志士が眠っています。

酒解神社

山崎城主郭と残る石垣
秀吉は山崎の戦いに勝利後、清洲会議後に天王山山頂に山崎城を建てた。柴田勝家との決戦に備えて、小谷城に匹敵する山城を京近くに築きたいと考えた。大阪城に移るまでの本拠地とした。

天王山山頂。天守台があったと考えられる。

井戸跡。

山崎城の概要図

去年の6月に大山崎ふるさとセンターにて開催された御城印合戦で購入した長岡京おもてなし武将隊つつじさんの武将印です。
アップデート令和7年5月10日
北ノ庄城 藤島神社 福井県福井市
令和6年9月20日に福井県福井市を訪れました。とても暑い日でした。京都から湖西道路を使って滋賀県を抜け、福井県敦賀市に入り、そこから高速道路を使って福井市に入りました。以前から行きたかった北ノ庄城と藤島神社に行きました。

柴田勝家像
柴田勝家は織田信長の尾張時代からの腹心として知られています。初めは信長の父信秀や弟信行家臣でしたが、信行が信長に殺されると、それ以降信長に従います。信長はその人の性格がどうであれ才覚を認めれば仲間にしたように考えられます。
勝家はかかれ柴田、鬼柴田、瓶割柴田などと呼ばれ織田軍でも比類無き勇猛の将であった。
桶狭間の戦い、浅井朝倉攻め、伊勢長島一向一揆攻めなど数々の戦いで功を挙げた。
越前一向一揆を平定し、ここ越前を与えられ北ノ庄城を築いた。
さらに越後の上杉謙信に対応するために加賀に入った。
その矢先、天正10年(1582)本能寺の変がおき明智光秀に襲われ信長は自害しました。勝家は上杉軍対応のため即座に動けませんでした。
その後秀吉により光秀は成敗され、織田家の後継を決める清洲会議にて三法師を担ぐ秀吉に主導権を奪われました。
滝川一益と連携して秀吉に対抗するも、賤ヶ岳の戦いで秀吉に痛い敗戦を喫し、流れを完全に持って行かれました。
ここ北ノ庄城に撤退し籠城戦に及びますが、前田利家を始めとした長年の与力たちにも見放され、奮戦虚しく自害しました。
辞世の句「夏の夜の夢路はかなきあとの名を雲井にあげよ山ほととぎす」

お市の方像 比較的新しいですね。
織田信長の妹で、元は浅井長政に嫁いでいましたが、小谷城落城後、3人の娘たちと落ち延び、柴田勝家に再嫁しました。北ノ庄城落城時に勝家と共に自害しました。

お市の方の娘たち(茶々、江、初)
北ノ庄城落城後、秀吉に預けられ、茶々(のちの淀君)は秀吉の側室に、江は徳川秀忠の正室に、初は京極高次の正室になります。
茶々は権力者秀吉に対してどんな思いだったのでしょう?実の父浅井長政を殺され(秀吉は叔父の信長の一軍の将でした)、母お市の方を殺され、表面では従うものの腹の中では殺してやりたい気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。秀吉死後も息子秀頼(秀吉との子ではない可能性が高い)はかわいいものの豊臣家を未来永劫栄えるようになど考えていなかったのではないかと思うのです。むしろ自分が好きなように豊臣家の財産を使い世を謳歌した後は、自分一代で滅んでしまうことを願ったのではないでしょうか。
そう考えると関ヶ原の戦いの時、石田三成の援軍として秀頼を大将として出陣させなかったことに全て合点がいくんです。

越前北ノ庄城址碑

柴田神社
北ノ庄城天守閣跡(1575?1583)と伝わる場所に建てられました。

北ノ庄城石垣
柴田勝家築城の北ノ庄城の石垣遺構と考えられています。発掘調査の結果から本来はこの石垣は高く積まれていたが、結城秀康が福井城築城に際して取り除かれたため石垣の根石のみが残った状態であると考えられます。

北ノ庄城堀跡
発掘調査で確認された、福井城下層(1600年以前)の東西方向の幅が25メートル以上ある南北に延びる堀跡です。堀の規模から柴田勝家築城の北ノ庄城の堀と考えられます。露出展示している石列は堀南面の石垣です。

北ノ庄城「想像図」
織田信長は越前一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川と吉野川の合流点に北ノ庄城を構築した。
天正9年(1581)北ノ庄を訪れたポルトガルの宣教師ルイスフロイスは本国宛の書簡の中に北ノ庄城の石垣の美しさを伝えている。
また羽柴秀吉が勝家を攻めた時にその戦況を小早川隆景に報じた天正11年(1583)の書簡の中には北ノ庄城について九層の壮大な天守閣があったことを伝えている。
勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺民家等を北ノ庄に移転させることに努めた。足羽川にかかる橋(九十九橋)を半石半木の橋に架設したと伝わる。勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。
無料で入れる北ノ庄城趾資料館がありましたので入りました。
北ノ庄城趾から発掘された鬼瓦

柴田勝家安堵状
この文章は勝家が座の特権を認めないという楽座令を廃したことを示す資料である。しかし、橘屋支配下の二座においては対象外とされており、勝家が橘屋を重用したことが分かる。

北ノ庄城下の推定復元図(福井市史より)

柴田神社で購入した北ノ庄城の御城印
北陸新幹線開通に伴いリニューアルされた切り抜きバージョンです。
足羽山方面の西光寺に勝家とお市の方お墓があるということで向かいました。ここに資料館があるのですが、予約が必要で今回は中に入れませんでした。寺の職員の方が申し訳ないと思ったようで、越前武将珈琲勝家をいただきました。ありがとうございます。

足羽山にある藤島神社です。

南朝忠臣新田義貞を祀っています。
明治政府は南朝の正統性を示すため南朝忠臣の別格官幣社を全国に建てました。
新田義貞は鎌倉時代の上野国の武将で、源氏一門でした。元弘3年(1333)に関東の諸豪族を吸収し攻め込んで、北条得宗家の鎌倉を陥落させました。
その後建武の新政で後醍醐天皇方につき、足利尊氏と戦うことになります。一進一退の攻防を繰り広げますが、ついには越前に追い詰められます。

藤島神社の御朱印を購入しました。
新田家家紋の大中黒も載ってますね。
神社の女性職員の方が丁寧に対応していただきました。ありがとうございます。
ここから車で20分くらいのとこに新田義貞戦死地があるとのことで行ってきました。

灯明寺畷の新田義貞戦死地(推定)
建武5年(1338)藤島城攻めへ向かう途中、灯明寺畷のぬかるみにはまり北朝軍、斯波高経の部下細川出羽守に遭遇し討ち取られたという。

新田塚
江戸時代の明暦2年(1656)に灯明寺畷あたりで兜が掘り起こされそれを新田義貞のものとし戦死地としたとされるが本物かどうか怪しいものである。
アップデート令和7年4月1日
小浜城 福井県小浜市 敦賀城 福井県敦賀市
令和6年8月14日子供たちを福井県の小浜市に釣りに連れて行ったついでに小浜城に行って来ました。
まだまだ暑い盛りでした。
1607年京極高次が築城しました。関ヶ原の合戦後、若狭の国に封じられました。それまでの手狭で不便な山城の後瀬山城を廃し小浜湾に臨む蜘蛛の浜(後の雲浜)に水城として築かれました。
京極家は北近江の主家の血筋であったが、浅井家の台頭によりその地位を追われた。しかし、徳川家康に取り立てられ南近江の大津城に入った。1600年の関ヶ原の戦いの時、籠城し立花宗茂ら西軍一万人を食い止めました。この功績により若狭国に封じられました。
京極家は出雲松江に転封になり、その後、江戸幕府の大老も勤め、将軍徳川家光を補佐した譜代大名である酒井忠勝が入りました。小浜の城下町を整備しました。以後明治維新まで酒井家が治めました。

小浜城跡に建つ小浜神社

蜘蛛手櫓

小浜城天守跡

小浜城図(かつて雲浜城とも言われた)現地案内図より

御城印を山川登美子記念館で購入しました。
9月20日に敦賀市の敦賀城跡に行ってきました。前から行きたかったところです。城跡しか残っていません。大谷吉継は関ヶ原で散った石田三成の盟友です。
大谷吉継は羽柴秀吉の長浜城時代から小姓として使えました。その頃から石田三成とは懇意であったと言われる。武官というよりどちらかというと三成と同じで文官の才があった。
天正17年前領主の蜂屋頼隆が亡くなり、敦賀領主となりました。蜂屋が作り始めた敦賀城を完成させました。しかし、1616年元和の一国一城令により破却されました。跡地には代官所や奉行所が置かれました。

真願寺
まさに真宗大谷派!(大谷吉継とは関係ない)

敦賀城の乾門跡に建てられました。境内に城の礎石が残り、在りし日の敦賀城をしのばせます。

西小学校の校門付近にある敦賀城跡碑
敦賀町奉行所、代官所がありました。

来迎寺(らいごうじ)
敦賀城から移築したと伝わる中門です。幻の敦賀城の華やかな面影を感じさせる歴史的遺産が残っています。

JR敦賀駅で切り抜きの御城印を購入しました。

双蝶のギョーブなるかっこいいヒーローやおもてなし武将隊の大谷吉継様がおられるようです。
慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原で吉継はみずから作り上げた勝算を胸に西軍三成側について善戦しました。しかし味方の裏切りが続き、大谷軍は全滅、吉継は自害しました。
不治の病に冒されながらも輿に乗って戦い、「忠義と友情」に殉じた戦国の「智将」でした。
メジャーリーグでは大谷翔平がすごい記録を残していますが、私の中では大谷さんは大谷吉継です。
元寇防塁と黒田六端城の松尾城
ゴールデンウィークに行った歴史史跡は3つほど上げてきましたが、まだ残りのものがあるので最後に上げたいと思います。
令和6年5月4日福岡市西区生の松原(いきのまつばら)にある元寇防塁を見に行きました。
というのも現在連載されてる漫画の「アンゴルモア元寇合戦記?博多編?」を見たり、プレーステーション4の「ゴーストオブツシマ」をしたりしているので行ってみようと思いました。
就職するまで福岡に住んでいながら全く行ったことがなく、初めて行きました。

防塁
1274年に元は900艘の軍船と2万8千人の軍兵で博多湾に攻め込み、その西部に上陸し、九州の御家人たちと激しく戦いました。(文永の役)
その後鎌倉幕府は1276年から約半年かけて九州各国の御家人に命じて石築地を築かせ、警護させました。
1281年元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁と武士の元船への攻撃に阻まれ博多の地に上陸できませんでした。(弘安の役)
1931年に国の史跡に指定されて保存されてます。

防塁

2000年に石材の劣化や一部崩れが見られるようになったため、修理を行うとともに中央部約50mを当時の高さに復元しました。

生の松原地区の防塁は肥後国が担当して建造し、警備しました。当時の石築地と弘安の役の警備の状況を示すのが蒙古襲来絵詞です。防塁の前を従者を従え、馬で東へ進む竹崎季長を描いてます。防塁の上には菊池武房をはじめとした肥後の武将が臨戦体制で海の方を見つめています。おそらく博多湾に所狭しと浮かんだ元の軍船の動向を探っているのでしょう。

博多湾でヨットの大会があっているのでしょうか。何だか元軍の船のようです。

西の毘沙門山方面を望む

元寇防塁は箱崎から今津あたりまで全長20kmにわたって築かれた。

竹崎季長の武将印です。
令和6年8月11日の大阪お城フェスでいただきました。
別日に家族で、福岡県朝倉郡東峰村に「春の民陶むら祭(小石原陶器市)」があるということで行ってきました。
陶器を買ってお昼を食べた後に、松尾城跡というものがあるのが分かったので行ってきました。

筑前六端城というのは黒田長政が細川領との境に作った城です。若松城(三宅家義)、黒崎城(井上之房)、鷹取城(母里太兵衛→手塚光重)、益富城(後藤又兵衛→母里太兵衛)、松尾城(中間統胤)、麻?良(まてら)城(栗山利安)の6つです。それぞれ黒田24騎の武将たちが城主を務めました。大河ドラマ「軍師官兵衛」に出てきた武将たちですね。後藤又兵衛は黒田長政と折り合いが悪く出奔し、大阪の陣で豊臣軍側に味方して戦いました。

駐車場があるので車を停めて、10?15分ほど軽い登山をしたらお城に到着します。城の南西側から入れます。
松尾城はもともと秋月氏の家臣である宝珠山山城守の居城でしたが、1600年に関ヶ原の戦いの功で黒田長政が徳川家康に筑前を与えられ、福岡城に入ると、城代として中間統胤が入り治めました。1635年に一国一城令により廃城になりました。

石垣は綺麗に整備されてます。

西の大手
虎口になっています。

虎口

礎石建物跡

横矢

本丸跡と思われる

櫓台

松尾城の縄張り図
城としては簡素な作りで、防御力はあるだろうが籠城して長期間戦えるようには思えない。とりあえずの布石としておいた砦のように思える。

小石原焼のお皿と茶碗を購入しました。
原城 長崎県南島原市 続日本100名城
令和6年5月3日に島原城から南下して原城に到着しました。
ここは島原の乱で天草四郎率いる一揆軍が籠城した城です。
私がこれまで訪れた城の中でも最も戦死者が出たであろう所です。
まだ地中に眠っているかもしれない一揆軍がどんなことを考え、どのように戦ったのか考えながら歩きました。
2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産登録されました。
元々ここは肥前有馬氏の本城であった日野江城の支城として1599年から1604年にかけて有馬晴信が築いた城郭です。全体的には土造りの曲輪が並立する中世的な構造をベースとしながら、本丸のみは総石垣造りで近世初頭頃の城郭の様相となっています。
種子島へのポルトガル船来航以来、九州では多くの大名が洗礼を受けキリシタンとなりました。晴信も例外ではなくキリシタンとなり当然島原の住民たちも多くがキリシタンとなりました。1612年の晴信の失脚、1614年の有馬直純の日向転封を経て、松倉重政の支配となり1618年の島原城築城開始に伴って廃城となりました。松倉重政は、島原半島が火山灰により米の耕地が少なく土地が痩せて3から4万石であったもかかわらず10万石並の重税をかし、また大きな島原城の建設に従事させ住民に圧政を強いました。さらに重政の後を継いだ息子の勝家もその悪政を継ぎ、ついに住民は蜂起したのです。

天草四郎像
また1612年の幕府による禁教令により国内のキリシタンに対する取締りが強化されました。松倉氏によるキリシタン弾圧の激しさが住民蜂起の理由でもありました。
同じく天草地方でも圧政に苦しむ領民たちが蜂起して代官所や城を襲撃しました。一揆軍には農民だけでなく商人や旧小西家家臣や有馬家家臣などの武士も含まれていました。そんな彼らに担がれたのが旧小西行長家臣益田好次の子息四郎時貞でした。そして天草と島原の一揆軍は合流し3万近くに膨れ上がりました。そしてこの廃城となった原城を修復し拠点として籠城することになったのです。

板倉重昌石碑
板倉重昌は江戸幕府から最初に派遣された島原の乱鎮圧のための司令官です。思うように戦果が挙げられず、焦った重昌は原城に突撃して討ち死にしました。重政の子孫により討死の地に碑が建てられました。

三の丸跡

二の丸跡
現在も発掘作業が進められています。一揆軍の生活に使われていたものやロザリオや遺骨などが出てきているようです。

本丸正門後の石垣

埋め門跡

竪穴建物群跡

本丸門跡

本丸
櫓台や複数の門を伴う巨大な虎口が設けられ、礎石建ちの瓦葺き建物がありました。
1638年2月末幕府が派遣した2人目の司令官松平信綱は知恵伊豆と呼ばれる老中でした。

原城包囲網図(松浦資料博物館蔵)関口宏の一番新しい中世史江戸時代より
九州諸藩の大名と応援も含めて総勢12万の大軍で囲み、海上封鎖もする徹底的兵糧攻めでついには一揆軍も力尽きました。1人の内通者をのぞき、老若男女全員が撫で切りにされました。天草四郎はここで首を切られ、晒されて、長崎市内でも晒されました。
幕府軍からの申し入れで人質を取られて無理やりキリシタンにならされた者は免罪するということで1万人近くが降参したという言い伝えもあります。
しかしほとんどのキリシタンは信仰のために死ぬということで潔く首を切られたとも言われています。
松倉勝家は幕府に悪政を問責され大名には異例の斬首という処分になりました。

本丸から南西側の海岸を望む

本丸から東側には有明海を挟み天草諸島が見える
一揆軍が当てにしていたポルトガル船は応援に来ず、幕府側のオランダ船が原城に向かって砲撃してきたと伝わります。一揆軍の絶望はいかほどであったろうか

原城案内図

観光事務所にて御城印を購入しました。
有料ですが地元ガイドによる城跡案内もあります。

令和6年8月11日大阪お城フェスで購入しました。

南島原市教育委員会による原城再現CG
スマートフォンやタブレットからご覧になることができます。

原城再現CG
この城を全体を通して歩いたのですが、2から3万人が籠城するには狭いような気がしました。居住やゲリラ戦が可能な地下道や地下部屋などがあったのではないだろうか?と考えてしまいました。また、あまり高い山ではなく要害にも思えないので、よほど高い石垣と攻撃用の櫓が幾重にも築かれていたんだろうなと思います。もちろん鎮圧後に容赦なく破壊されていますが。
しかし、キリスト教入信しなさいとかやっぱり棄教しなさいとか嫌だと言ったら皆殺しとか、お上の言うことは無茶苦茶ですね。さらに武士も含んだ一揆勢ということで殉教者扱いもされていない。こんなに報われないことあるでしょうか?デウスに救われていることを祈るばかりです。
島原城 長崎県島原市 日本100名城
令和6年5月3日にゴールデンウィークに福岡に帰省し、両親とともに行ってきました。
渋滞に巻き込まれて大変でしたが、何とか到着しました。

城の石垣とお堀

横谷掛け

堀から見える観光復興記念館

堀から見る森岳公民館

復元天守
この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この地に五条(奈良)から入封した松倉重政が島原城を築きました。元和4年(1618)着工、約7年の歳月を経て完成。同時に城下町も整備しました。二代松倉勝家の時に島原の乱が起きました。

天守
層塔型総塗込の五層の天守閣をすえる本丸。
松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、松平氏と4氏19代の居城となりました。その間寛永14年(1637)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政4年(1792)うち続く地震と大津波にも耐えてきました。
明治維新で廃城になり、払い下げ・解体されましたが、昭和39年(1964)天守閣が復元されました。

西の櫓

天守最上階から見る巽の櫓

松平氏の鎧、兜

島原城周辺図

天守から見る普賢岳

天守から見る有明海
向こうに見えるのは熊本

時鐘楼
松平忠房が作った。時間ごとに突き鳴らして、時刻を知らせました。

武家屋敷をしきる回廊と水路

武家屋敷篠塚家

郷土料理具雑煮「姫松屋」
天草の乱時に籠城した一揆軍はもちと山海の幸を煮込んで食べたと言われています。それを再現して味を整えたものが島原の郷土料理となりました。

天守にて切り抜きの御城印を購入しました。
この後は急いで原城に向かいました。