北畠顕家 最後の戦いに関する史跡

令和7年2月6日に大阪市阿倍野区と大阪府堺市に行ってきました。以前から南北朝時代と室町時代の史跡を訪れていて、いつか行こうと思っていた場所です。きっかけは大河ドラマ「太平記」や北方謙三氏の小説南北朝シリーズでした。

 

ここ最近、週刊少年ジャンプで連載中でアニメ化もされた「逃げ上手の若君」の主人公北条時行の仲間として北畠顕家が登場しました。その単行本中のお知らせで、漫画とコラボした御朱印を阿部野神社で販売しているということだったので早く行かねばと思いやってきました。

 

ブログ(史跡/南北朝3)
阿部野神社本殿
顕家が足利軍と戦った古戦場であり、顕家の墓として伝えられている墓碑があります。明治11年顕家をお祀りする神社創建運動が起こり、政府もこれを受け明治18年に祭神を顕家と父の親房とする阿部野神社が別格官幣社として創立されました。

 

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南側鳥居

 

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北畠顕家公像
顕家は北畠親房の長子で元弘3年(1333)、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、親房と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、奥州はたちまちその威風になびきました。

 

延元元年(1336)足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功します。そして再び奥州に戻りました。

 

しかし、勢力を盛り返した尊氏が兵庫の湊川で楠木正成を破り、京都を占領し後醍醐天皇を吉野に追いやりました。

 

延元3年(1338)京都回復のため顕家は再び上洛を開始しました。鎌倉を落とした後、美濃青野原で北朝軍を破りましたが、近江へは入れず伊勢から一時吉野に入りました。その後、摂津の戦いで敗れ、撤退を余儀なくされ和泉国の観音寺城に入りました。北朝軍高師直が堺の浦に陣を敷いたので、顕家軍は進撃し激戦を繰り返しました。しかし、顕家をはじめ多くの武将が阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げたのです。21歳でした。

 

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勲之宮
北畠顕家と共に北朝軍と戦い戦死した南部師行を祀っています。

 

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西側鳥居
両側の神馬は顕家が奥州から長駆攻め上がって来た時に載っていた丈夫な馬のことです。

 

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阿部野神社の「逃げ上手の若君」とのコラボ御朱印
北畠顕家が美しいです。

 

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彼らと共に高師直と戦った(逃げ上手の若君より引用)

 

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北畠公園内の顕家公の墓
阿部野神社から少し離れたところにあります。実はこちらを先に訪れて、歩いて阿部野神社に行きました。

 

阪堺電車で住吉大社に向かいました。
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南朝の後村上天皇の住吉行宮跡
住吉大社の南側にあります。

 

またまた阪堺電車で少し離れますが堺市の石津に向かいました。
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北畠顕家と南部師行の供養塔がありました。

 

石津川の橋を渡ったあたりです。
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石津川
ここ石津の戦いで顕家は高師直に敗れ戦死しました。現在では川がかなり深いように感じました。当時もこれくらいだったのだろうか?

 

顕家は戦死する1週間前に後醍醐天皇へ上奏文を送りました。

 

一、地方機関を通じて非常時に備えること

 

一、諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること

 

一、官爵登用を重んじること

 

一、公卿や僧侶の朝恩を定めること

 

一、臨時の行幸及び宴飲をやめること

 

一、法令を厳にすべきこと

 

一、政道に益無き愚直の輩を除くこと

 

この上奏文は顕家の卓越した洞察力と政治理念を知ることができる資料として今日に至るまで高く評価されています。

 

これだけを読むと後醍醐天皇がどれだけ愚かな政治をしてるんやということが推察されます。この上奏文は現在の政府にも突きつけたいものですね。そのくらいひどい政治をやっていると感じます。楠木正成も新田義貞も北畠顕家も優秀な人たちが切り捨てられたように死んでいったのが勿体無いと言わざるをえません。

 

アップデート令和7年6月4日

 

蓮華寺 滋賀県米原市

令和5年3月31日に滋賀県米原市の蓮華寺に次男と行ってきました。名神高速の米原インターの近くです。彦根市内からも車で20分ほどで来れます。

 

先日報告して佐和山城、彦根城に続いて行ってきました。

 

近くに続100名城の鎌刃城があります。遠くて中々行けないので、いい機会なので、ついでに番場資料館にて続100名城スタンプもいただきました。資料館の職員さんが鎌刃城の発掘について詳しく教えてくれました。通常は土日しか開いてないとのことですが、今日はたまたま仕事があったので開けてくれていました。城郭協会の小和田先生や春風亭昇太さんも城に来られたらしいです。鎌刃城の御城印も売っていて買おうとしたのですが、たまたま小さなお金を持っていず、おつりもないとのことでしたので泣く泣く断念しました。まあお城も登ってないし次回としましょう。

 

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蓮華寺山門

 

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蓮華寺本堂

 

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鮮やかに咲く桜

 

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蓮華寺に咲く桜

 

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ここは多くの人がどういった所か知らないと思います。私みたいな南北朝時代マニアは中には知っている方もおられるかもしれませんが。

 

最近少年ジャンプで「逃げ上手の若君」という北条時行を主人公にした漫画をやっていますが、あれと同時代です。

 

元弘3年(1333)足利高氏に責められ陥落した京都の六波羅探題北方の北条仲時は南方の北条時益とともに光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴って郎党を連れて、鎌倉に向かって落ちて行きました。

 

六波羅探題があったという場所に現在では六波羅蜜寺が建っています。

 

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北条仲時像(蓮華寺蔵)

 

北条時益は野伏の襲撃を受け討死。北条仲時も何とか追手を退けつつ逃げてきましたが、後醍醐天皇方についた佐々木道誉に包囲され、ついにこの蓮華寺に至りました。天皇を道誉に引き渡した後、このまま、逃げ切って鎌倉へ向かうことは不可能と悟った仲時以下430名の郎党は本堂前で自刃したのです。仲時28歳でした。

 

時の住職同阿上人は深く哀燐され、その姓名と年齢、法名を一巻の過去帳に留め、更に一々その墓を建て丁重に葬いました。その過去帳は紙本墨書陸波羅南北過去帳と呼ばれ現在でも寺に残っています。

 

本堂の右側を行くと、仲時ら430名のお墓があります。お詣りはしましたが、何か申し訳ない感じがしたのでお墓を撮るのはやめました。

 

すぐ近くには佐々木道誉の本拠地がある伊吹山があります。仲時らはここを超えて関ヶ原方面への東海道へ出るのは無理だと思ったのではないでしょうか。もしかしたら、鎌倉が新田義貞により陥落したことを知ったのかもしれません。

 

ここまで来るのに将兵の戦える大人はほとんど討死しており、怪我人、老人、子供がほとんどだったのかもしれません。みんなで敵陣につっこんでバラバラに玉砕するくらいなら、一緒にあの世に行こうと考えたのかもしれません。

 

そんな悲惨なことがあったとはとても思えないくらい、桜が綺麗に咲いていました。

 

今日は主従そろって花見をしているのかもしれないですね。

 

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説明板にあるのですが佐々木道誉が南朝軍と書かれているのに何だか違和感があります。道誉といえば常に足利尊氏と共に北朝に支えたイメージなので。
しかし、よくよく考えるとこの時点では光厳天皇をかつぐ鎌倉北条方が北朝で、それに反旗を翻した後醍醐天皇側は南朝なのですね。

 

ということは足利尊氏は後に北朝を立てるので北条氏の意思を受け継いだということになるのかな?

 

南北朝時代というのは、足利尊氏と後醍醐天皇が決別して、後醍醐天皇が奈良に南朝を立ててから始まったとばかり思ってました。

 

安国寺 京都府綾部市

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令和3年6月6日に仕事で京都府綾部市に行くことがあり、高速を降りたところ公家のような装束の銅像があったので車を停めて近くで見てみました。何と私が尊敬する尊氏さんではないですか??尊氏押しとしては危なく通り過ぎそうで調べもせず行ったことは不覚でした。

 

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安国寺というのは、1338年足利尊氏が夢窓疎石の勧めにより元弘の乱以来の戦死者を弔うために全国に建てたお寺のことです。その筆頭をここ綾部市の安国寺にしたということです。京の名のある住職を招いて始祖とし多くの寺領を寄進したとのこと。

 

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正門の扉に足利二引両の家紋が掘られています。

 

何故この地が安国寺の筆頭になったかというと、この辺りが上杉庄と呼ばれており、尊氏の母方である上杉氏の所領地があったということです。

 

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1305年上杉清子はここで尊氏を産んだという言い伝えがあります。

 

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仏堂

 

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尊氏産湯の井戸

 

尊氏の出生地についてははっきりとせず、いくつか説があります。

 

「関東の足利庄」と「鎌倉」と上杉清子のいた「京」そして「綾部」である。

 

まず父の足利貞氏は幕府に仕える身で北条氏の本拠地である「鎌倉」にいることが多かった。

 

足利氏の所領地が山城国(「京」)にもあった。

 

上杉清子は正妻ではなく側室であり、「京」の上杉屋敷に住んでいた。

 

「綾部」は上杉庄があるが「京」から遠く離れたこの地を清子は訪れたことがあるのか?

 

ここ「綾部」に上杉庄があり、尊氏をはじめとする室町幕府により多大なる恩恵を受けたことは間違いないでしょう。人々から尊崇を受けた尊氏がここで生まれたということにしたかったという当時の人々の気持ちも分かります。しかし現実的には「京」から離れて辺鄙すぎる。

 

ということから、尊氏は「京」で生まれた可能性が高いと思われます。ただ決定的ではないためこの「綾部」で生まれたということもあるかもしれませんね。