有岡城(兵庫県伊丹市)と尼崎城(兵庫県尼崎市)

令和8年1月21日に荒木村重関係のお城を攻めてみました。兵庫県南東部の伊丹市と尼崎市なので京都から高速で1時間くらいでした。

 

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まずは伊丹市の有岡城跡です。

 

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伊丹は旧摂津国のへそ(地理的中心地)、交通の要衝だった。織田信長配下の武将、荒木村重はこの地を300年間治めていた伊丹氏を攻め、その拠点伊丹城を落として有岡城と改名、摂津守に就任した。まちぐるみ要塞化した難攻不落の名城として知られ、イエズス会宣教師ルイス・フロイスは「はなはだ壮大にして見事なる城」と記した。

 

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礎石建物跡

 

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井戸跡

 

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土塁

 

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石垣
この前、千田先生が出ていた番組でこの辺りに天守があったとおっしゃってました。

 

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五輪塔なども石垣に使われているのが分かります。

 

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有岡城跡惣構図
これまで載せてきた写真は主郭部です。東部は台地になっており川を堀として守られていたと思われます。西部は北(岸の砦、現在は猪名野神社)、西(上臈塚砦)、南(鵯塚砦)にそれぞれ砦が築かれ堅固な構造をしていました。

 

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沓脱石
伊丹城時代の建物土間に置かれていた石と推定されている。

 

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黒田官兵衛の藤棚(時季外れで咲いていません)
天正7年(1579)、村重が信長に背きました。黒田官兵衛は村重の説得に有岡城を訪れますが、逆に幽閉されてしまいます。官兵衛は小さな土牢に押し込められたせいで頭は皮膚病ではげ、足は不自由になりました。その間官兵衛は力強く咲く藤の花を見て勇気を得、その後黒田家の家紋に藤の花が使われるようになったのは有名な逸話です。

 

この物語を後世に伝えるため、この地に官兵衛ゆかりの姫路城の藤から育てた子孫樹を植樹しています。

 

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土塁

 

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息子荒木村次の舅である明智光秀も信長に帰順するよう説得に訪れたが村重の固い決意が変わることはなかった。有岡城は信長の大軍に包囲されますが、村重は徹底抗戦し、なかなか城は落ちません。しかしついには兵糧がつき、村重は再起を図り村次と有岡城を脱出し、尼崎城へと移りました。城主を失った有岡城は落城し、村重の親族、家臣ことごとく信長に処刑されました。この地はそういった痛ましい歴史も残しています。村重はその後、尼崎城から花隈城へ移り、さらに毛利領へと逃走しました。信長死後は、秀吉時代に茶人として名を馳せました。村重の心中いかほどだったでしょうか。

 

「英雄たちの選択」という番組で、中国方面軍の大将に村重が任じられず、秀吉になったことが気に食わなかったのではないかという指摘もあります。また生き延びた村重は本能寺の変を起こすに至った光秀に協力したのでないかという可能性にも触れていました。

 

その城下町・伊丹郷町は江戸積み酒造業の一大拠点として復活した。

 

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土塁

 

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有岡城の御城印を購入しました。(荒木村重の武将印の背景にあるのが藤の花です。)

 

今年の6月に「黒牢城」という映画が公開されますが、まさにこの有岡城を舞台にしています。本木雅弘さんが荒木村重を演じます。大変待ち遠しいです。

 

この有岡城跡から南へ車で30分ほど移動しました。荒木村重時代の尼崎城はここから北東にある大物という場所にあったようですが遺構は残っていないとのことでした。現在ある尼崎城は江戸時代のものを再現復興したものです。

 

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復元尼崎城

 

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平成27年(2015)安保詮氏が復元城を建築し尼崎市に寄贈されました。尼崎城分間絵図を元に再現されています。

 

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お姫様お殿様になりきれる衣装コーナーがあります。

 

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小さなお子様でも楽しめる作りになってます。尼崎城の歴史が分かるシアターコーナーもありました。

 

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大阪夏の陣後、江戸幕府は大坂を直轄地として西国支配の拠点とするため、元和3年(1617)譜代大名戸田氏鉄(うじかね)に尼崎城を築城させ、大坂の西の守りとしました。甲子園球場の3. 5倍にも相当する広さの、 5万石の大名の城でした。尼崎藩はその後、青山氏、(櫻井)松平氏と藩主が変わっていき、250年間続き、明治の廃藩置県を迎えました。

 

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天守から見る尼崎市内の街並み

 

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寛文10年頃尼崎城下絵図

 

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現在の尼崎城周辺図

 

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尼崎城縄張り図

 

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冬バージョンの御城印を購入しました。

 

令和8年9月9日アップデート

 

 

京都御苑(御所)北、相国寺周辺を歩いてみた

令和8年1月11日は草野球チームの新ユニフォームを受け取るために御所の今出川グランドに行きました。この辺り中々来ないので、ついでに相国寺周辺を散策しました。まずは東周りから攻めました。

 

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本満寺

 

ここには何故か山中鹿之介のお墓がありました。
山中鹿之介は山陰地方の覇者尼子氏に支えた武将です。尼子氏が毛利元就に敗れ、滅亡した後、京都にて僧となっていた尼子勝久を還俗させ、旗頭にし尼子氏復興と山陰奪回を目指しました。織田信長配下になり、播磨の上月城をあてがわれ守備しました。しかし謀反した別所氏の三木城攻略に兵をさく羽柴秀吉から援軍が得られず、孤立無援の中毛利の大軍に囲まれ、願い空しく落城し、捕らえられ連行される途中で殺害されました。

 

なぜここにお墓があるのかというと、鹿之助の長男とされる山中幸元(鴻池直文)が江戸時代以降の豪商で鴻池財閥の始祖となったからで、どうやらその子孫である鴻池家の誰かがここに墓を建てたといわれています。真偽は不明です。

 

 

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阿弥陀寺
織田信長のお墓があります。命日の6月2日に毎年「信長忌」が開催され、信長が使ったとされる弓掛、手鑓、鞍覆や阿弥陀に伝わる古文書などが展示されるようです。本満寺を少し北に行くとあります。
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天文24年(1555)に寺を開基した清玉上人が正親町天皇の勅願所として建立。天正10年(1582)織田家と大変縁の深い清玉上人は本能寺の変を聞き、急いで駆けつけたが、信長はすでに自害した後であった。その場で遺体を焼き、骨となった信長を法衣に包み当寺へ持ち帰り墓を建て弔いました。長男信忠と森蘭丸ら近習の墓もあります。

 

ちなみに現本能寺の信長廟は三男信孝が集めた信長の骨を納めていると伝えられています。他にも遺品や分骨したとされるお墓が日本には20ヶ所以上あるとされています。信長ほどの有名人ともなると、死してなお、それに皆あやかりたくなるのでしょうか?

 

あと余談ですが、芸能人の森光子さんのお墓もありました。

 

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阿弥陀寺の御朱印を購入しました。

 

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御霊神社(上御霊神社)

 

延暦13年(794)桓武天皇が平安京遷都の折、崇道天皇(早良親王)の御神霊をおまつりするために建てられました。

 

相国寺のちょうど真北まで来ました。当日、全国女子駅伝の日で多くの学生さんがウォーミングアップしていました。雪の吹雪く中、寒かったですが皆さん頑張ってました。

 

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四脚門(南門)
伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられています。

 

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御霊神社あたりは応仁の乱発端の地です。

 

応仁元年(1467)畠山政長が御霊の森に陣をしき、畠山義就と戦いを交えたのが応仁の乱の発端となりました。

 

三管領家(細川、斯波、畠山)の1つの畠山家の家督争いに介入した細川勝元と山名宗全そして将軍足利義政、妻の日野富子も巻き込んで11年にわたる大乱となりました。この戦いは京都を荒廃させ、全国に飛び火し東西に別れて戦い室町幕府失墜の原因になりました。各地で守護大名が生まれ、また戦国大名が下剋上により登場していくきっかけとなります。

 

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足利幕府、室町第跡
花の御所と呼ばれた室町幕府本拠地です。御霊神社を西側へ出て室町通りを南に進むとあります。

 

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同志社大学敷地内に遺構があります。

 

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石敷遺構
「花の御所」は1378年に室町幕府3代将軍足利義満が造営した足利家の邸宅の通称です。室町通に正門を設けたことから室町殿または室町第とも呼ばれました。1394年に義満は北山第(現在の金閣寺)に移り、将軍を息子の義持に譲りました。8代義政の時、応仁の乱で焼失しましたが、13代義晴の時再築しています。

 

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石組み水路跡

 

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室町殿の北側に重臣の武家、南側に公家の住まいがあったのが分かります。天皇のいた内裏はすごく小さく、相国寺が非常に大きいことが分かります。

 

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また同志社大学敷地内には江戸時代の薩摩藩邸跡もあります。室町通りを南に進み、今出川通りまで来たら東に進みました。
文久3年(1863)薩摩藩主島津久光は二本松に藩邸を設けました。5800坪の広大な敷地でした。8月18日政変や禁門の変では、幕府や会津藩と連携して長州藩を中心とする尊攘勢力を一掃しました。

 

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薩摩藩邸と隣接して近衛家別邸(御花畑御屋敷)が営まれ、幕末には島津家が使用していた。ここに、薩摩藩家老小松帯刀邸がありました。ここに薩摩藩代表西郷隆盛、長州藩代表木戸孝允、仲介人坂本龍馬が集い薩長同盟が結ばれたといわれています。

 

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地下鉄出町柳駅まで向かいました。なかなかの距離を歩いたのでだいぶ疲れました。しかし、今日歩いたところは歴史的に重要な所が集まっているなーとしみじみ感じました。

 

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地下鉄出町柳駅でお土産を買いました。串わらび餅です。京町家茶房 宗禅さんのお菓子です。
本当はふたばの塩豆大福を買おうと思ったのですが、道の逆サイドまで並ぶという状態だったのであきらめました。

 

アップデート 令和8年8月2日

 

岐阜城 日本100名城 岐阜県岐阜市

令和7年11月3日に京都に遊びに来た母と車で行きました。叔母が岐阜に住んでいるので会いに行くというのも目的でした。私の親族はほとんどが九州に住んでいるので帰省したら何人か会うのですが、この叔母だけは私の結婚式以降中々会えていなかったので良かったです。叔母夫婦が農業を営んでいるのでお米をいただきました。米が高騰しているので大変ありがたかったです。

 

さて岐阜城に着いたのですが、麓の駐車場は満車で中々入れず混雑していました。あとで知りましたがもうすぐ耐震工事をするので閉鎖するようで、そういったことも原因かもしれませんね。

 

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麓から見える岐阜城

 

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若き日の織田信長像

 

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御手洗池
慶長5年関ヶ原合戦の時、岐阜城主織田信秀は石田三成に味方し、福島正則、池田輝政らに攻められ落城しました。そのおりに大勢の奥女中らがこの池に投身自殺したと伝わります。

 

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織田軍の旗が掲げてあります。

 

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三重塔
大正天皇御大典記念事業として大正6年にかつての長良橋の材木で建築された登録有形文化財です。

 

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麓の織田信長公居館跡

 

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麓の織田信長公居館跡

 

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麓の織田信長公居館跡

 

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麓の織田信長公居館跡

 

登山道からも行けるようですが今回はロープウェイを使いました。ここも混んでおり30分ほど待ちました。その間に売店でお土産を物色しました。御城印や御城印帳も売ってます。

 

ロープウェイを降りてからも天守までは少し登る必要があります。

 

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堀切(切り通し)

 

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ニノ門周辺の石垣
1539年頃の斎藤道三から始まる後斎藤期の石垣と1567年の信長入城後に築かれた石垣が見つかっています。

 

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ニノ門

 

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復元天守
信長はこの地を井口(いのくち)から岐阜と改めました。中国の故事「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」に倣ったもの。孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地になるよう願いを込めて。と言われている。

 

岐阜城はかつて稲葉山城と称していました。金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(1567)、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定し天下統一の本拠地としてからでした。(この時から天下布武の朱印を使うようになった)慶長六年岐阜城は廃城となり天守閣、櫓などは加納城に移されました。現在の城は昭和三十一年に鉄筋コンクリート造りで復元されたものです。平成二十三年金華山一帯が岐阜城跡として国の史跡に指定されました。

 

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天守の石垣

 

天守閣は資料館となっています。ここで日本100名城スタンプを押せます。

 

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織田信長像
信長は天文三年(1534)尾張の織田信秀の次男として生まれ、幼名を吉法師、元服して上総介信長と名乗りました。信長は斎藤道三の娘帰蝶(濃姫)を娶り同盟しました。その後、桶狭間の戦いで今川義元を破りました。斎藤龍興を破り稲葉山城を手に入れました。岐阜城下町には「楽市楽座」を設けました。当時の岐阜の町の様子をポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「バビロンの賑わいのようであった」と述べています。天正四年岐阜城を長男信忠にゆずり、自らは安土城へ移りました。天正十年本能寺の変で倒れました。

 

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信長公鎧

 

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地球儀と眼鏡

 

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遠眼鏡

 

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京都南蛮礼拝堂の織田信長像

 

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信長公南蛮具足

 

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天守最上階に描かれた麒麟

 

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天守から見る岐阜市街地や長良川

 

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本丸井戸

 

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ロープウェイから見える景色

 

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お土産に日本酒、職場へクッキー、せんべえ、妻へほうじ茶や息子たちに文房具を購入しました。

 

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3冊目の御城印帳をここで購入しました。

 

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御城印

 

ロープウェイ乗り場の売店だけでなく、岐阜城楽市という施設があり食事ができます。ロープウェイ山頂にも展望レストランもあります。

 

前からいつか行きたいと思っていたのでやっと来れて良かったです。岐阜県は京都からそれほど遠いと感じなかったので他にも多くの城があるので今年また訪れたいと思います。

 

アップデート 令和8年6月1日

 

田辺城(京都府舞鶴市)と宮津城(京都府宮津市)

令和7年10月16日に長男の中学校の運動会があるということで、有休をとっていたのですが、雨天中止となったので1人暇を持て余していたので急遽京都北部に取材に行きました。

 

前から行きたいなーと思っていたところです。京都縦貫道を通って2時間弱くらいでした。まずは舞鶴市にある田辺城に行きました。

 

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復元城門

 

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城門
櫓部分が田辺城資料館になっています。

 

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北櫓
櫓部分は彰古館と呼ばれ、こちらは「戦国武将細川幽斎の生きた道」という展示が催されていました。

 

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天守台跡

 

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現在は舞鶴公園と呼ばれています。

 

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田辺城城郭復元図
この細長い縄張りを見ると長岡京市にある勝竜寺城を思い出します。
田辺城は細川、京極、牧野氏の居城として290年間領内統治の中心でしたが明治6年に廃城になりました。

 

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心種園の古今伝授遺跡
田辺城籠城戦時に、細川藤孝が後陽成天皇の勅使に歌道の奥義である「古今伝授」(古今和歌集の秘事口伝の伝承者)の秘伝書を伝えた場所と伝えられています。

 

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あやめ池から見る石垣

 

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資料館の細川藤孝像
細川藤孝は1534年室町幕府の重臣三淵晴員(はるかず)の次男として生まれました。武人でありながら和歌、連歌などの多くの才能を待つ文人でした。有力な幕臣細川家に養子に入って、後を継ぎ、足利義昭を支えました。

 

その後、朝廷や幕府の内情に明るかったことから、明智光秀とともに織田信長に引き抜かれ支えることになります。明智光秀と共に丹波攻略を担当し、丹後の抑えとして宮津城、田辺城を築きました。長男忠興の正室に光秀の娘玉子(後のガラシャ)を迎えました。

 

しかし1582年光秀が信長に謀反し本能寺の変を起こした時、その誘いには乗りませんでした。その後の秀吉による大返しがあまりにもスムーズなことから、前々から光秀の謀反を知っており、秀吉と繋がっていたのではないかという説も聞かれます。

 

1600年に起きた関ヶ原の戦いの時、本軍は忠興が指揮し家康(東軍)に味方し不在の中、500の兵で守る田辺城で西軍15000人に囲まれました。藤孝は奮戦しますが数の不利はどうしようもありません。しかし藤孝は唯一の古今伝授の伝承者であったため、これを討死させることを惜しんだ後陽成天皇が仲裁し、西軍と和議が結ばれたのです。

 

その後、細川家は家康に支え、九州豊前の中津、小倉から肥後熊本に移り大大名として明治を迎えました。

 

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竹屋芸屋台
江戸時代屋台の上で子供を主とした歌舞伎が屋台芸として行われました。現在でも田辺城まつりに使用されています。

 

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藩校明倫館の門
天明年間に創立された藩校の門です。跡地は現在は明倫小学校になっています。

 

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田辺城の御城印を資料館で購入しました。秋限定バージョンです。

 

その後、お昼ご飯を食べて、車で下道を通って宮津市に向かいました。30分くらいかかりました。

 

宮津城も細川藤孝、忠興の城ですが遺構があまり残っていません。観光案内所で少し説明をもらい、市街地を歩くことにしました。

 

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宮津城太鼓門
宮津城の南側にあった城門。江戸時代にこの門の傍に時を知らせる太鼓櫓があったことにその名が由来すると思われる。明治6年の廃城令により城の遺構はことごとく壊されたが、唯一残る城の建造物として貴重である。現在宮津小学校の敷地内にある。

 

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大村邸跡
藩政時代の武家屋敷である。

 

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しらかべの道(旧宮津城の城壁復元)

 

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巨石はこの南方80メートルあたりにある本丸入り口黒鉄門の袖石垣の1つである。窪みのある石は大手橋橋脚の礎石である。波状の石柱はこの北側波止場の船つなぎ石である。

 

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一色稲荷社
丹後領主一色義清自刃の地。細川忠興により謀殺された一色義俊(細川藤孝の娘婿)の復讐戦に挑んだ一色義清であったがあえなく敗れこの地で自刃したと伝わる。

 

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父が新聞に連載されていたという情報で知った本が発売になりました。「村上海賊の娘」を書いた和田竜さんの作品です。単行本が出たら読んでみたい。

 

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カトリック丹後教会宮津聖堂
明治中期としては珍しいフランス風ロマネスク様式で木造、畳敷きで和洋折衷の教会です。

 

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細川ガラシャ像
宮津城跡地方角を眺め、宮津の民の幸せを祈った姿が表現されている。

 

宮津城は当時最先端の技術を駆使して造られており、築城には城造りの名人と言われた明智光秀も深く関わっていたといわれています。光秀は琵琶湖に面した大溝城、坂本城の縄張の経験があること、水軍を持っていたこと、信長の右腕であったことから今後の中国地方攻めにあたって対毛利氏の戦略も熟知していたことを考えると、海城にすることを含めて宮津城の選地と縄張に光秀が深く関わっていたのではと考えられています。

 

玉子はここで忠興と暮らしますが、本能寺の変の後、謀反人の娘ということで離縁され、丹後の山奥深くに幽閉されました。これは忠興が玉子を守ろうとする苦肉の策に違いありません。2年後に秀吉に許されて再婚の形で細川家に戻りました。

 

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宮津湾にそそぐ大手川

 

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宮津市街地マップ
大手川の東側に宮津城があったといわれています。天の橋立はここから少し北西に行くとあります。

 

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別日に行った時の天の橋立です。
この日はいい天気だったようですね。日本三景の一つです。夏には海水浴場になります。海水浴に行ったこともありますが水はなかなか綺麗です。

 

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このように股のぞきで見ると龍が登っているように見えます。

 

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宮津城の御城印を「道の駅海の京都宮津」の観光案内センターで購入しました。天の橋立と宮津城太鼓門が載ってます。

 

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道の駅でクラフトビールと子供たちにサイダーを購入しました。

 

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道の駅で名物カレー焼きそばとオリーブ茶を購入しました。

 

天気は曇りでしたが、なんとかもってくれて良かったです。大雨ザーザーだったら写真も微妙だし、歩きにくいので。

 

細川藤孝は正直いって明智光秀おしの私としてはあまり好きな武将ではないです。光秀を裏切り、世渡り上手であったところが。しかし、田辺城や宮津城は光秀が関わった城として見ておきたかったので今回取材しました。藤孝としても最初足利義昭に支えていたころは光秀とは比べ物にならないくらい高い地位だったのが、信長に支えた時、光秀の方が上になったことを気に食わなかったのでしょう。その辺の鬱憤があったのだと思います。

 

 

新宮城 和歌山県新宮市 続日本100名城

令和7年8月12日、13日で家族と和歌山旅行に行きました。そのついでに新宮市の続日本100名城である新宮城に行きました。

 

今回のお宿は勝浦町のホテル浦島というとこにしました。翌朝、ホテルの山上にある狼煙山の狼煙台跡に次男と行きました。ここに登る前にホテル内のエスカレーターを使います。最上部まで5分くらいかかるとてもとても長いエスカレーターです。

 

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狼煙台跡から見る勝浦町の海の景色

 

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狼煙台跡
幕末に作られたもの。異国船の出入りが多くなってきて、紀州藩が防衛のために築いた。

 

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この亀さんのフォルムの浦島丸でホテルに連れてこられます。まさに気分は浦島太郎。

 

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ホテル浦島の売りの一つ洞窟温泉も堪能できます。硫黄のにおいたっぷりの気持ちいい温泉から太平洋の荒波の景色が美しいです。

 

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翌日は、近くのブルービーチ那智で海水浴を楽しみました。長男とは大きくなってなかなか一緒に旅する機会がなくなってたので良かったです。普段はそうでもない次男と仲良く遊んでいたので嬉しかった。

 

その後、新宮城に向かいました。子供たちはくたくたで車で寝ていたので、嫁と行きました。

 

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新宮城の入り口

 

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二の丸石垣

 

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本丸石垣
矢穴と刻印があるようですが写真ではよく分からないですね。

 

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天守石垣

 

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天守から見る熊野川の景色

 

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本丸渡櫓門
本丸の入り口に巨石を使用した高度な切り込み接ぎのどっしりした門跡と枡形虎口が残っています。

 

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与謝野鉄幹歌碑

 

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天守台

 

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丹鶴姫の碑
新宮城は別名、丹鶴城という。もともとこの地に源為義と熊野別当の娘の子である丹鶴姫の住まいがあったことによる。熊野地方を統治した新宮氏の祖とされる新宮十郎行家は丹鶴姫の弟であった。

 

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出丸
お城の曲輪としては全国でも珍しい独立した作りです。本丸と橋で繋がっていました。

 

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二の丸の池
鯉が泳いでいました。

 

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二の丸(鐘之丸)

 

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三の丸(松之丸)の石垣

 

新宮城は紀州藩付家老水野氏の新宮領統治の拠点となりました。水野氏は熊野川の河口周辺に港を置き、流域の木材や木炭等の山林資源を集め、江戸との交易を盛んに行ったことで知られています。それは近現代にも引き継がれ、新宮市は木材のまちとしても有名です。

 

1600年(慶長5年)浅野幸長が紀伊国に入る。浅野忠吉により新宮城作られる。

 

1619年(元和5年)浅野忠吉、三原へ転封。水野重仲が入る。1633年(寛永10年)水野重良が新宮城を完成させる。以後水野家は明治維新まで10代続きました。

 

1873年(明治6年)廃城令により城が取り壊されました。

 

阿須賀神社にある新宮市立歴史民俗資料館に続日本100名城スタンプがあるということで移動しました。資料館はこの日は無料でしたが普段は200円の入場料がかかるようです。

 

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阿須賀神社

 

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紀伊山地と霊場の参詣道ということで熊野古道が世界遺産に登録されています。この阿須賀神社もその一部です。

 

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阿須賀神社

 

この近くには熊野速玉大社もあります。

 

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JR新宮駅の近くの観光案内所で新宮城の御城印を購入しました。袋に八咫烏のスタンプが押してありました。

 

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1日目は白浜あたりの海上釣り堀で家族で釣りを楽しみました。鯛が数匹釣れたのですが、近くのとれとれ市場というところでさばいてもらい、お刺身と焼き魚(写真左上)でいただきました。とてもおいしかったです。市場で売っている魚介類も購入してバーベキューしました。

 

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お土産をいくつか購入しました。

 

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八咫烏(やたがらす)にちなんだ金の卵餅です。
八咫烏といえば、初代神武天皇を奈良へと導いたことで有名ですね。サッカー日本代表の胸にも付いているマークです。

 

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伝統の那智黒飴

 

帰りは三重県側を通って帰りました。

 

お腹も満足の楽しい旅でした。

 

8月23日にBS日テレでまさにこの場所を舞台にしたドラマが放送されました。内藤剛志さん主演の人気サスペンスドラマシリーズ「旅人検視官 道場修作 和歌山県南紀勝浦温泉殺人事件」です。

 

みられた方おられますか?ホテル浦島はもちろん熊野三社や新宮城も出ていて嬉しかったです。

 

 

令和8年3月1日 アップデート